2013年1月5日土曜日

「不都合な相手と話す技術」 北川達夫

人と話をしていて、「なんでこいつはこちらの話がわからないんだ!」という、イライラに悩まされた その時どうするか? 私の場合には、「できればもうかかわりたくない」という態度を選びたくなる。
「対話」を拒絶する状態である。しかし、対話の無くなった状態では、闘うこと=戦争しか残されておらず、その状態を避けるためには「対話」を続けていくことが必要なのだ、と著者は述べている。

基本的に「相手と自分は同じではない」という認識に基づく対話の重要性を説いているのが本書である。

対話の重要性は、相手と自分のバックグラウンドが違う場面、特に、外国人と話をする際に顕著となると思う。「国際的なコミュニケーションと英語の習得レベルに関しては、言葉にまつわるイメージが言語や文化によって異なることを知っている必要があるが、それ以上を知る必要はない」と述べている。むしろ、「その違いに対して平気でいられる鈍感さが必要で、生半可な知識のほうが危険である」と述べている[p49]。まさに、国際コミュニケーションの道具として英語を習得しようとするならば「金メダル英語」を目指す必要はなく「銅メダル英語」をめざせといった主張とも共通していると思う。英語学者になるならば別だが、英語は単なるツールでありほかに高める専門性を持つひとが多数派ではないだろうか。

「相手を攻撃する「闘うコミュニケーション」ではなく、まず、「相手の主張を聞き、そして「なぜそうなのか?」を訊くことで、相手の考え方の成り立ちを知り、そこに正当性が認められるかどうかを検証する、そして互いに歩み寄りを目指す「対話」こそが重要」と述べている[p56]。

「私の経験では~」と言ってみたところで必ずしも説得力はないという危険性[p100]や、価値観が多様化している状況では目標が同じだからといって、それに対する「思い」が同じとは限らない[p106]と論じており、ここでも自己と他者は同じではないことを認識する重要性がうかがい知れる。

相手の心理は決してわかるものでないから、相手の立場に立って相手がどう考えているかを「推論」するエンパシーが必要である[p174]が、「自分の基準で推測しない」(=自分の基準を持ち出すと、その基準が双方で共有されている前提にたってしまう)重要性を述べている。これは、自分と他人が違うと思っていても、自分の基準を持ち出してしまう危険性を指摘している。これは陥りがちな点であり、「絶対的だと思われていることを疑ってみる」態度が重要であることにも繋がっていると思う。

対話においては、「本当の自分」とは切り離したところに「自分」を設定し、その「自分」を演じるという意識が必要で[p181]、これを意識的に行うことがポイントとしている。さらに、対話では、相手がわからないのが前提であり、相手の素顔ではなく、状況によって変化する相手の「仮面」を見極めろといっている。しかし、それは本音と建前と呼んでは不正確で本音を語る際にも仮面をかぶっているとしている[p182]。「本当のところ」と切り出されたら、その意味することがどの程度がを判断する能力が必要であろう。

何かを隠すのが目的の場合、仮面を素顔のように装い、その隠していることが暴露されそうになると仮面が変化する[p188]。例として、臆病な人間が攻撃的な仮面をかぶっており、その臆病さがばれそうになると、異常なまでに攻撃的になることが挙げられている。まさに、弱い犬ほどよく吠えるという例えと共通していると思う。逆切れキャラの人間の本質を突いているかもしれない。
「仮面には仮面で応じ、相手と自分の関係を俯瞰的に眺めることで容易に相手の思うツボにはまることはない」と述べている。ここでは俯瞰的と表現されているが、自分を客観的に見ることと同じではないか? 自分を客体化するのは、例えば自分の感情をコントロールすることにも役立つ。

本から知識を得るための対話型の読書術も紹介されている[p237]。基本はヒト対ヒトの対話と同じである。その本の著者との知識や経験の比較を行うことにより、「著者のいう正しいこと」と「自分にとっての正しいこと」を比較する点が対話のプロセスと同じである。

「コミュニケーション力」と一言でいっても、いろいろな面があり、本書で論じられている「対話力」は欠かせない要素といえるだろう。

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