2013年3月31日日曜日

「環境問題の杞憂」 藤倉 良

「環境問題」といえば、大きくは地球温暖化(寒冷化という説もありますが)や、オゾン層の破壊から、身近なところでは、ごみの分別回収資源化や、我々が摂取するものの安全性など、広範囲に及びます。著者は、科学者の立場から環境問題が「それほど深刻でない」ことを述べています。


環境問題が「杞憂」のレベルであるにもかかわらず騒ぎ立てられる背景として、科学者側のとマスメディア側の問題を指摘しています。

1. 科学者側の問題

1.1 例えば、ある化学物質が危険であることを示すことは可能だが、その物質が安全であることは不可能である。「絶対に」大丈夫と断言することはできない。
1.2 ある物質が、例えばこの濃度範囲では問題ないという研究では、研究の成果として認められにくく研究者にとっては取り組みにくい。


2. マスメディア側の問題

2.1 科学者が断定できないことでも、「安全です」とか「危険です」とかいう結論を市民は待っているものだと信じている。
2.2 「よい話」よりも「悪い話」、つまりセンセーショナルな話題を取り上げる傾向にある。
2.3 ニュースとして伝える側が必ずしもその内容をよく理解しておらず、また、わからなくても構わないのだと思っている。
2.4 報道内容が「言いっぱなし」で、その後のフォローアップがほぼない。

取り上げることのインパクトが大きいほうが好まれるという点では1.2と2.2は似ています。ただ、世間に対して情報が発表後にも検証や反論される余地の少ないメディアの場合(2.4)では、内容がセンセーショナルであればあるほど責任が大きいでしょう。


ここ10年ほどはダイオキシンや環境ホルモン問題、あるいは食の安全性について注目があつまりましたが、それらのリスクは小さいことを具体的に示しています。
何がどれだけ危険かを評価する尺度としての「リスク」について、「風呂場は路上より危険である」と、科学的なデータをもとに論じています。年間死亡リスク(=1年間に10万人のうち何人がそれによって死亡するかを数字で表したもの)の比較では、入浴が10に対して、交通事故6となっています。つまり1年間で10万人中、10名は入浴が原因で、また、6名が交通事故で死亡するということです。喫煙については74、さらに受動喫煙については12と算出されています。死亡リスクに限って言えば、環境について考える前に、タバコをどうにかしなければという結論になりそうです。

「杞憂」を「小惑星の衝突」と考えて、「杞憂が現実となるリスク」を0.01と算出しています。(「杞憂」という言葉は、中国古代の杞の人が天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという、故事に由来するらしいです。)食の安全性の例として、全頭検査前の牛肉を食べてクロイツフェルト・ヤコブ病にかかる確率0.007は、小惑星衝突による年間死亡リスクよりも小さいことを示しています。

一方で自殺による死亡リスク(日本での2005年のデータがベース)を25と算出しています。年間死亡リスクを算出するために使用したデータの精査が必要ですが、タバコ関係を除くと、自殺に結びつくようなストレスの対処のほうがリスク低減のためには必要性が高いのではないかとも感じられます。(最近は国も自殺防止には熱心なようですね。)


最後の「環境の常識に惑わされない」の章では、一時期、環境分析に近い世界に身を置いていた立場からして共感できる点が多かったです。
特に「環境にやさしいとはどういうことか」については、特にマスメディアには考えてほしいものです。環境教育が進み、リサイクルに対する意識が高まったことは歓迎すべきです。ただし、何もかも再利用すればよいのか?については、よく考える必要があります。本書では、ミツカン(お酢の会社)がリターナブル瓶ではなく、ワンウエー瓶を採用することが環境負荷の低減には有効であるとした例が紹介されています。つまり、瓶を洗浄して利用する際には、瓶の洗浄に薬品は使うし、また、回収再利用のためにはガラスを厚く丈夫にする必要があり、それによって瓶が重くなると運搬時の環境負荷が増大するなどを考慮した結果です。

資源の利用に関して感じていることがあります。最近、外食する際に割り箸をやめるケースが見受けられます。「割り箸をやめましょう運動」はまだよいにしても、、「使用済み割りばしを製紙会社に送って紙の原料に使ってもらおう運動」は、とても環境にやさしいとは思えません。使った割り箸を洗う際の水使用や洗剤使用、それを箱に詰めて輸送するのが車であれば、その際のガソリン使用など、その行為自体が環境負荷を高めているのではないでしょうか。(環境教育としては役立っているかもしれません)。

環境に対する意識を高めることは重要だと思いますが、「本当に」環境にやさしいとは何かをきちんと理解して行動することが重要でしょう。せめて、LCA(ライフサイクルアセスメント)で評価した結果をもとに「環境にやさしい」と言ってほしいものです。(ただしLCAもやり方によって評価結果が変わってくるので鵜呑みにすると危険です)。


ネットの時代になって、発信側と受け取る側のギャップが小さくなったものの、世間に正しい知識を広めるためには、科学者のみならず、マスメディアの果たす役割が大きいです。さらに情報を受け取る側としても、流される情報が正しいのかどうかを見極めることが必要でしょう。



本書中のデータは最新のものではありませんが(2006年初版)、環境問題の本当のところを理解するための入門書としておすすめできます。

2013年3月30日土曜日

「生きるチカラ」 植島 啓司


正しく生きるとはどういう状態なのか?
最高の人生とはあるのだろうか?
人生で降りかかる災いの意味するところとは?

こうした疑問に対する「一種の」答えがこの本の中に見出せるでしょう。


この本のユニークな点は、著者は宗教人類学者で、大学教授を歴任してきた経歴とは対照的に、基本的には人生に対して享楽的に向き合った立場で意見を述べている点でしょう。別に、貯金がなくても気にせず、賭け事好きで、女性も好きという生き方をしているようです(たぶん、他の著作を読めばもっとわかるのでしょうが)。


人生における選択に対して次のように述べています。
すべての選択には、それ自身、間違いが含まれている。つまり、正解と不正解があるわけではないのだ。
数学や物理などの試験の設問に対する選択では「正解」があるのでしょうが(笑)。興味深いことに著者は、選択した結果として挫折や失敗を味わった場合でもそうした「過ち」を経て人生が始まる、と述べています。私の場合、過ちから人生が始まると考えられるほど「割り切れる」人間ではありません。ただ、人生における選択で正解や不正解を判断するのはほぼ不可能だと思います。人生のパートナー選びはベストだったのか、この仕事を選んでよかったのか、日本に住み続ける選択は正解なのかなどに対する選択に、ただひとつの答えはないでしょう。選択した本人の人生が終わるときに、なんらかの解答が得られるかもしれないですが。

人生で遭遇する不確かなもの、理不尽なものにどう対処したらよいのか、については、なるべく多くのトラブルを経験しておけば、その痛みは緩和されると述べています。つまり、人生で始めてのことはダメージが大きいが、少なくとも一度は経験しておけばダメージが小さくなるという考えです。例としては離婚や失業の例を挙げています。離婚1回目はダメージが大きいけれども、2回、3回(あるいはそれ以上?)と複数回であれば痛みは小さくなるということでしょう(幸か不幸か、離婚経験なしの私にとっては未知の領域です。)

「運をぐるぐる回す」ことで、自分の不運な状態から抜け出そうとしたり、あるいは、恵まれない人に寄付することで「運を回す」必要性も述べています。運が自分のところに偏り過ぎないようにすることも必要なようです。「情けは人の為ならず」にも近いですが、「金を回す」のほうがイメージが近いかもしれません。
運の受け渡しといえば、麻雀で、「一時期の点棒のやり取りよりも、その局での運の受け渡しが最終的な勝ち負けにつながるのだ」、といったことを聞いたことがあります。昔は運なんて信じていませんでしたが、科学では説明できない「運」のようなものが存在しているに違いないと最近では感じることがあります。

お金持ちはなぜ不幸になりがちなのかについてや、「放蕩」についての考察もなされています。

今後、生きていくうえで、どんな苦境が待っているかわかりませんし、その不確かさが不安を生むことは否めません。かといって、将来がすべてわかっていたならば、その人生はどんなに味気ないものとなるでしょう。将来の不確かなことを何とか力ずくで何とかしようとするのではなく、不確かなことに対してオープンな気持ちでいることが重要だと思います。

将来が不安だから手に職をつけようとしたり、貯金しようとしたりするわけだし、試験の結果がひどいと不安なので試験に備えて勉強するなど、将来に対する不安があるからこそよい側面もあると思います。もちろん、ラテン的に生きることを否定するものではありません。


「人生山あり谷あり」を考える上で大いに参考になる本です。

2013年3月24日日曜日

「英語で意見を論理的に述べる技術とトレーニング」植田一三、妻鳥千鶴子

本書の内容を端的に述べると、まさにタイトル通りです(笑)。

 初めの部分では、論理性を鍛えるための具体例と問いが並んでおり、論理的でない意見の述べ方がどういう場合かがよく分かります。(例えば、「なぜ税金を納めなければならないのか?」という問いに対して、「それは常識です」と答えるのは、論理的な意見の述べ方ではない。)
実践トレーニングの項目では、具体的な論点について反対の場合、賛成の場合とそれらの表現、語彙について示されています。最近の「乱射事件」で再び話題になった銃規制に問題についても、反対および賛成のそれぞでの立場での表現例が具体的に示されています。

日本語に対応する英語を知らなければ、英語ではうまくいえない場合もあるでしょう。しかし、論理的に述べようとする場合に、「日本語」で語ることができなければ、それを英語で言えるはずもないから、まずは自分の意見や考え方を持っていることは必要ですね(「英語で話すヒント」でも同じ主張だった:つまり「英語の技術」ではなく、まずは「何を話すか」が重要)。

この本は英検1級対策にも最適なようですが、この本を買おうとした直接の動機は、英会話のグループレッスンでargumentのネタ(妊娠中絶の是非など)についてどう思うか、を話さなければいけないときに困ったためです。
賛成か反対か?そして、そう思う理由を述べなければいけない困った状況でも、この本を読むと基本的なネタに対する答えの典型例が示してあるので、それを基に学んで自分の考え方を固めれば次回からは論理的に意見を言えるでしょう。

議論のテーマとされるであろうほとんどの社会的なネタに対して意見を述べるための手助けに、本書はなりうるでしょう。

似たテーマの本も多く出版されていますが、理論と実践(実例)のバランスがとれた良書です。




先日、本屋をぶらついていたら、続編(というか改訂版)を見つけました(「英語で経済・政治・社会を討論する技術と表現」)。これから購入であれば、こちらのほうがよいですね。値段が上がっているのはCD付になったからでしょう。

2013年3月23日土曜日

「話せぬ若手と聞けない上司」 山本 直人


この本が書かれたのは2005年です。それから8年余りが経過していますが、新入社員と彼らを受け入れる側との関係はあまり変わっていない気がします。著者は、博報堂で人材育成に携わったときの経験を元に、若手社員、上司の世代間のギャップを埋めるための提言をしています。


上司(というか、指導的立場の先輩社員)に対しては、若者を「理解できない」けれど「認める」ことはできるから歩み寄っていけばよいのではないかと述べています。

一方で、若手に対してはいくつかの具体的な助言をしています。
例えば、「身銭を切って遊べ」、「先入観を捨てて、疑え」、「相手の立場に立ってものを考えろ」「無駄なことをやってみろ」などです。



また、学生時代(すなわち社会人になる前)に理不尽経験を適度に知っていることの大切さを指摘しています。理不尽の経験の少ない、理不尽免疫を持っていない者に対しては、
「現実の世の中、ビジネスにおいては努力と結果は全然比例しない。『やればできる』は大嘘。報われない努力は山ほどある。」
「それでも努力したほうが成功確率は高いから、努力したほうがいい」
と述べています。
もちろん、ビジネスの世界に限らず、世の中、理不尽な出来事は珍しくないです。例えば「運の良し悪し」のように自分ではコントロールできない要素があると認めるにしても、努力することに意義はあると思います。


読書の重要性についても述べています。
インターネットと比較して本が重要なことについて、佐野眞一氏の話として以下のように紹介しています。
「インターネットは空中戦のようなものだから大きく情報をつかむことはできる。でも、そこにはいろいろな漏れがある。本は歩兵か地を這うようにして集めた情報がつまっている。空中と地上と両方から情報を集めなくてはいけないと思う。」
この話を聞いた新入社員から「本の意味」を聞かれて、著者は、以下のように答えています。
「検索できるということは世界中の人がその情報に触れられるということでしょ。だからインターネットでわかった情報には優位性はないと思うんだ。」
「ネットの情報はみんなが同じように消化していくけれど、本の情報は人それぞれに加工できるんだよ。」
そういえば、評論家の佐高信氏も同じく、「ネットで検索できるような情報はだれでもアクセスできるのであまり価値がない」と言っていたように記憶しています。

ネットの情報といっても「ネット特有の情報」と「ネットを媒介して利用可能な情報」に分けて考えるべきだと思います。前者では例えばWikiのように信頼性が怪しい情報を信用してよいかという問題が付きまといます。しかし、後者では、本やその他の印刷物(研究論文や報告書)がネットを通して入手できる点から言えば、メディアが紙や印刷物から電子媒体に変わっただけなので、前者とは区別して扱われるべきでしょう。
ネット時代で大切なことは、玉石混淆の情報から、いかにまともな欲しい情報を入手できるかだと思います。


本書は、年寄り(=上司)にとっては会社生活のなかで若手に歩み寄る手がかりを与えてくれるでしょう。また、若手にとっては「会社の中の歩き方」を知るために役立つとともに、世渡りのコツを伝授してくれるのではないでしょうか。

2013年3月20日水曜日

「会社人生は「評判」で決まる」 相原 孝夫


会社人生においての成否は、その人の評価ではなく評判で決まるので、その評判をマネジメントすることが重要なのだというのが本書の結論です。

評判のよい人と評判の悪い人の代表例を3つ挙げています。


評判のよい人の代表例
1.他者への十分な配慮ができる人
 相手を尊敬して接する。また、相手の立場に立って難しいことをわかりやすく説明しようとする。
2.実行力のある人
根回しなどの細かい点についても労を厭わず、また、結果だけではなくそのプロセスも重視する。
3.本質的な役割を果たせる人
例えばいわゆる「ダメ上司」の下の立場となっても、そのダメ上司を「ダメ」にするのではなく、自分の立場を十分に理解してでうまく使える。

評判の悪い人の代表例
1.自分本位なナルシスト
他人とうまく協力していくことができないタイプで、部下に考えさせて育てる意識が少ない。成果に対しても「俺が俺が」と独占しようとし、周りとの折り合いをうまくつけられないタイプ。
2.評論家
無責任に評論するが責任はとらず、また、会社や上層部を平気で非難するタイプ。
3.自分の立場や役割を理解していない「分不相応な人」
会議の場では、自分がいかに優秀かをアピールしたり、また、外部の人との接し方が高圧的だったりする組織内で微妙な立場の人(担当副部長や、部下なし課長などが典型)。


 この本での「社内での評判をよくすること」は、「周囲と仲良く明るくできること」とも言い換えられるでしょう。「媚びる」必要なありませんが「気を利かせる」あるいは「気遣いができる」ことがそのための必須の要素です。もちろん気を利かせる対象は上司に対してではなく同僚や部下に対してであることは言うまでもありません。



個々人の専門的な能力も大切な要素ですが、例えばここで示されるように会社という組織では、その組織内でうまく振る舞うことも大切です。チームスポーツで個人の能力が優れているだけでは勝負に勝てないのと同じです。
見方を変えれば、チームスポーツから個人スポーツへに変えれば、個人の能力への依存度が大きくなります。個人の能力が卓越していれば会社人生を捨てるという生き方もあるでしょう。しかし、大半の人はスゴイ人ではないので、組織の中で生きていくのが合理的な選択であると感じます。

2013年3月17日日曜日

「「上から目線」の構造」 榎本 博明

これまでは「上から目線」というと、同じ立場あるいは下の立場の者が、高い位置からものを言う場合に使われていました。しかし、上の立場から言われた場合にも、その上の人に向かって「その上から目線やめてください」という事例があるようです。上から目線の立場と、ウエから言われるシタの立場(「上から目線をやめてください」という若者)、これら双方の立場からの分析を心理学的な側面から行っていますが、後半では現代の若者の変化について考察しています。(前に紹介した「上から目線の時代」とは切り口が違っています。)

「上から目線」の立場としては以下の2つに分類しています。
1.親心による上から目線
この場合は、相手に対する助言や忠告なので、ほとんどが「言い方」に問題があるために反発されるとしています。その一方で、本当にその「立ち位置」が適当であるかも考える必要があるかと述べており、例えば会社で単に先輩だからというだけではなく、その人の能力も「上」であることが前提であるとしています。

2.コンプレックスによる上から目線
部下に対して過剰に上からものを言い、尊大な態度をとる上司がその例です。自尊心の低いあるいは劣等感の強い人ほど威張り散らす傾向があることを考えると、それが「上から目線」の原因となっているのは理解しやすいです。

「上から目線やめてください」と反発する側の心理としても同様に、自尊心が低いことを挙げています。つまり自分に自信がもてないために、相手の忠告に対しても素直に受け入れられずに反発する状況です。



親心からの上から目線に対して、それがわかっていながらも反発を示す一方で、かまってほしい姿勢を示す若者の背景には、日本文化の特徴であるみんなを同じように扱おうとする「母性原理」があるとしてます。
また、この日本文化の影響のほかに、幼いころの近所での遊びの経験が無くなったことによる現代の若者の人との付き合い方(距離の取り方)の変化が影響を与えている点も考察しています。

「今の若い者は、、、」の言葉は昔から変わりませんが、ひきこもりやニートが目立ち始めたころ以降の若者の変化に、著者は危機感を抱いているようです。私も既に「若者」のカテゴリーから外れていますが、「若者」といわれる世代はどう考えているか・感じているかに興味があります。

「上から目線」という言葉は一種の流行りな気がします。そのくくりを分解するといろいろな側面がみてとれます。









2013年3月16日土曜日

「「上から目線」の時代」 冷泉 彰彦

「上から目線」の分類を本書に基づいてやると以下の3つに分けられます。

1. 価値観の違いが起因する場合
「野良猫に餌を与えるのは是か非か」の例を挙げて説明してます。その価値観の対立のうえで、「どちらが上か」の論争では、「下」とみなされたほうからは「上から目線だ」と言われるのは避けられないとしています。

2. 日本語のスタイルに起因する場合
日本語の会話では「上下関係」の発生が避けられず、その感じている上下関係にずれが生じたときに「違和感」としての「上から目線」を感じるのだと述べています。
(日本人同士で英語を使っている状況から日本語にスイッチしたとき、相手との関係性が定まらないとどういう言葉遣いが適当かわからずに困った経験があります。「上か下か、対等か」を定めた上で会話を進める日本語の難しさやわずらわしさを感じた瞬間でした。)
英語の会話ではどうか? 英語では上下関係の規定が弱いので「上から目線」は問題にならないと述べています(アメリカの、「反エリート感情」と「上から目線」について例示されていますが、これは価値観対立からの上下関係による「1」に分類されるものでしょう。)

3. 日本語と価値観の違いの混合型
日本での「上から目線」の言葉がメジャーになった背景のひとつに「会話のテンプレート」が消滅したことを指摘しています。すなわち、社会の情勢が大きく変化したために価値観や生き方が多様化したために、従来の会話のテンプレート(パターン)では「上から目線」になる危険性が増しているという指摘です。例として披露宴の席での会話を挙げています。結婚して子供を作ってお幸せにという会話は以前であれば問題なかったでしょう。しかし、今では初婚でない場合もあるし、結婚後に目指すところも多様化しているので、下手をすると「大きなお世話」あるいは「上から目線」を感じさせることになるということです。


「1」のように、価値観の対立で「上から目線」を説明するのは少し無理な気がします。価値観を巡る論争でその対立がエスカレートする過程で「上から目線」の感覚があるのは通常だと思えるからです。やはり「2」のように、日本語(や文化)に特有の現象とみるのが腑に落ちます。

「上から目線」と非難されないようにするには、対等性を忘れず、場合によっては一歩下がった立場をとることを著者は薦めています。



この本の本筋ではありませんが、日本語と英語の違いを再認識させられました。
日本語と英語を比較すると、やはり日本語のほうが複雑に感じられます。話す場合はもちろんですが、仕事でメールを書くときは、言葉を選ぶのにいつも苦労しています。違う見方をすると、日本語のほうがニュアンスの違いの「幅」が英語の場合よりも広いといえるでしょう。ただし、その分だけ解釈の幅も広がってしまうので、「正確な情報のやり取り」のツールとしては日本語よりも英語のほうが優れている気はします。


2013年3月10日日曜日

「なぜ上司とは、かくも理不尽なものなのか」 菊澤 研宗

「上司の理不尽さ」というよりは、「一見、理解しがたい上司の行動には、それなりの合理性がある」ことを考察しています。そして、上司だけではなく、外から見た「非合理的」な組織の行動にも、その組織からみた「合理性」を持っていることを、企業ぐるみの不正隠ぺいの例を挙げて説明しています。

別の本にも書いてあったと思いますが、特に会社のなかで偉くなるにつれて「保守的」になるのは、「失うものがでかくなるから」と書いてありました。「何か新しいことをやって失敗すること」と、「何もやらずに失敗のないこと」では、年をとるほど「後者」を選ぶでしょう。特に責任が問われることであれば、「保守的である」合理性は、年齢とともに割合を増すでしょう。ただし、新たな機会を失う危険があるという点からは、企業全体としてみると合理性を欠いていると思われます(だから本書で言う、「限定合理性」なのでしょう。)

「理不尽な上司の下で働き続けることが合理的か」についても触れています。転職よりもそのまま辞めずにいたほうが経済的には合理的に見えるが、精神を病むようであれば、その健康上の損失までを考えたほうがよいと言っています。「合理性」も視点をどこに置くかで変わってくることを示す意見だと思います。



問題を相対化して小さく扱うつもりはありませんが、世の中、上司だけでなく理不尽な状況はごろごろしているものです。ものの見方を変えてみるのも処世術のひとつでしょう。他人の考え方を変えることは容易ではありませんが、自分の考え方を変えるのは現実的な選択です。

2013年3月9日土曜日

「はまる人、はもる人、はめる人  「強味」の人材像 」 キャメル・ヤマモト

仕事を選ぶうえでの、自分の「強み」を明らかにする方法を紹介しています
強みの類型として「タレント」か「プロデューサー」かの2つを挙げています。この分類は、その人の強みの性質としてわかりやすいものです。「タレント」が「はまる人」で、「プロデューサー」が「はめる人」までは、理解しやすいのですが、「はもる人」はあまりピンと来ませんでした。一般的な、同質のものと「はもる」ことのほかに、異質のものと「はもる」必要性を説いているのはおもしろいですが、一言でいうと「まわりとうまいことやれ」でしょうか。

企業における通常業務に合わせた9つの役割タイプを示し、どのタイプにに自分が入るのか、どのタイプを目指すのかを明らかにするのがよいと述べています。この役割タイプ分けは、おおざっぱに言って「稼ぐ人」[安い人」「余る人」の分類(著者の以前の本で述べていること)の類型化を思い出します。(もっと細かい分類は以前のエントリーでの本でふれています。)

「私の履歴書」をつくって、自分の強みを探しだすことを勧めています。また、自己の過去を振り返ることで、埋もれていた強みを見つける可能性があることをアドバイスしています。

「自分の強みを見つけ、それで勝負しろ」という主張はよくわかるし、その強みをみつける方法は丁寧に紹介されていますが、それで自分の強みがなかったらどうなるんでしょうか。まあ、その時で考え方を変えればよいのでしょうね。少なくとも「タレント的な強み」を持っている人が、「プロデューサーとしての能力」が求められる場面では、よさを発揮できるとは限らないし、逆も然りということだと思います。「名選手が必ずしも名監督ではない」という言葉と同じです。

何となく書いてある内容がスッと入ってこないのは、やはり、著者が元外務省キャリアというすごい人だからなのでしょうか。


*絶版です。

余談ですが、この本で書いているのと違う意味で「はめる人」が世間にはいるので、世渡りする上では、そんな人に対しては注意が必要です。



2013年3月8日金曜日

「Bad Girls in a Mad World」 Emily Throne

刑務所へ投獄された女性が、そこで知り合った人々の様子を語っています。投獄されるような人々ですから、その理由は麻薬だったり、売春だったり、虐待や殺人を犯しているわけで、それらの事件の描写が多少「グロい」ので、読んでいてさわやかな気持ちにはなれませんでした。昼食をとりながらも読みすすめましたが、食事中に読むのはお勧めできません。

本書で取り上げられている、獄中で知り合ったひとが捕まった際の新聞記事が本書の最後の部分で引用されています。それら実際の新聞記事の内容と比較して読むと、さらに楽しめるでしょう。

三面記事的な内容の面白さがあります。一方で、貧困や教育の不十分なことが犯罪につながっていることを考えさせられました。

2013年3月3日日曜日

「仕事耳を鍛える―「ビジネス傾聴」入門」 内田 和俊


「話すよりも2倍聴くために耳は二つあるのだ。」と誰かが言っているように、うまく話せること以上に、聴くことが大切です。

この本では、ビジネスに使える聴き方として、まずはレベルⅤの聴き方をして、それからどう対応したらよいのかのレベルⅠ~Ⅳにシフトする方法を紹介しています。つまり、レベルⅤで診断して、Ⅰ~Ⅳのどの処方をしたらよいかを考えるということです。レベルⅤの聴き方は「SYP傾聴」で、「相手の立場になり、相手の個性に共感しながら、話を聴く( Symphathyze with Your Personality)」やり方です。

ただし、いちいちこの聴き方では身が持たない(職業カウンセラーは別でしょうが)ので、その後に状況に応じて聴き方を変えるのが現実的だという考え方です。「聴く側の姿勢」として、話す相手が、共感してほしいのか、愚痴を聞いてほしいだけなのか、あるいは、何らかの指示やアドバイスが欲しいのかを判断して聴き分けるのが肝心であると述べています。場合により聞き流すことも重要と言っています。

ある意味、「空気を読む」重要性を説いているとも言えます。そのために、言葉だけでなく、その時の様子や表情などで、相手の「真意」を見抜くことが重要でしょう。相手の真意を読みとれるためには、相手の変化に敏感な必要があるので、相手に対して関心を持つことも必要だと思います。結局は、普段からよく見ていないと、その時々の微妙な変化に気づくのは不可能に近いからです。


仕事がいっぱいいっぱいで余裕がなくなると、聴く余裕もなくなり、こうなると、コミュニケーションに齟齬が発生する可能性が高まるので、なるだけみんなでサポート、分配して仕事をすることの重要性も指摘しています。あまりにも仕事の負荷が多くなりすぎると聞くことはできても聴けなくなるので話しが通じなくなってくるのは理屈にあっているのでしょうね。


生まれ持った「聴く力」は、人によって違うでしょうが、ここでの理屈を理解して状況に応じた「聴き方」を選べば、多少は聴く能力が上がるかもしれません。



聴く重要性を侮るなかれ、です。

2013年3月2日土曜日

「会話は「最初のひと言」が9割」 向谷 匡史

ここでの「会話」はビジネスシーンが想定されています。
一種の「ビジネス会話のtips集」としては基本的なことが書いてあります。著者は1950年生まれなので、20代のヒトからみた場合には共感できない点もあるでしょう。

「言ってはいけない最初の一言」の章で「とんでもありません」が挙げられています。お世辞あるいは褒められた場合には「とんでもありません」と受けずに、「恐れ入ります」と礼を述べて、それに続いて謙遜すればよいと言っています。「とんでもありません」と言われると、お世辞を言った側が否定されて「間抜けな感じ」になるからよくないのだとも指摘しています。(ただし、「間抜けな感じ」になるかどうかは、その状況や相手と自分の関係性で決まるのではないかと私は思います。)
褒められた場合の反応については既に他のエントリーで触れました。

会話には「リッチ会話」と「ビンボー会話」があり、「ビンボー会話」に展開することはよくないといっています。会話の最初でネガティブなトーンで始めると駄目だということで、「天気が悪くいやですね」とか「忙しくて貧乏ひまなしですよ」とかでは、そのあとが(著者の言う)「ビンボー会話」に陥りるようです。同様に、「最近は景気が悪くて、、」と切り出すのもよくないのでしょうね。
コップに半分の水を、「半分しかない」と言えますが、「半分も残っている」とも表現できますから、心がけでビンボー会話は避けられるでしょう。事実は否定的なものであっても、その表現方法を「ポジティブ」にまとめることは可能なので日頃から心がけたいものです。

「ビジネスで使える最初の一言」の章では、「一度で結構ですから」の使いようを示しています。ビジネスは情で動くが、下手に頼むだけではなく、「一度だけでも」あるいは「一回だけでも」などの一言がお願いには効果的だと述べています。「一度だけ」は、言っている側としては「始まり」(=2度目、3度目もありうる)だが、言われた側は「限定的」に捕らえて大目にみるので感情として受け入れられやすくなるからだ、と解説しています。結局は「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」(交渉や依頼の場面で、本命の要求を通すために、まず簡単な要求からスタートし、段階的に要求レベルを上げる方法)の応用といえますが、情を絡めている点では、本書の指摘はユニークです。