2014年12月21日日曜日

コミュニケーション言語の歩み寄りの必要性

英語を話す(英語でコミュニケーションをとろうとする)場合、自分と相手の英語力が同等であればあまり問題は感じない。すなわち、自分の知っている語彙や表現をそのまま使えば、相手も理解してくれるからである。同様に、相手の話で使われる語彙や表現にも同じことがいえる。

次に自分の英語力よりも相手のほうが上の場合はどうだろうか。例えば相手がネイティブスピーカーの場合である。この場合は、自分の知っている語彙や単語があまり簡単でなくても、相手は理解してくれるだろう。一方、相手のネイティブスピーカーは、ある程度「手加減」してやる必要がある。すなわち、「このくらいの言い回しであれば相手が知っているだろう」とか、「この表現は難しそうなので、簡単な言い回しに変えよう」といった「歩み寄る姿勢」である。

これとは反対の状況で、相手の英語力が自分よりも低い状況ではどうだろうか。その時は、自分が「歩み寄る」姿勢をとらなければ、コミュニケーションが困難となる可能性が高くなる。

英語が第一言語の世界では、こちらが歩み寄る必要はない(相手の教育レベルにもよるが)。しかし、英語が非母国語の世界では、相手の英語力を察し、場合によっては歩み寄って相手のレベルにあった平易な英語に切り替えることが必要だ。ブラジルで英語によるコミュニケーションの体験から、そう思った。

個人の経験では、ブラジル人はポルトガル語の使用に関して、まったく歩み寄る姿勢が見られない。(似たことは以前にも書いた)。こちらが「わからない」という反応を示しているにもかかわらず、だ。お構いなしに話を続ける。
なぜか?
彼らは「誰もがポル語を話せる」と思っているのではないかという結論に達した(特に田舎の場合)。そう考える理由は、日本の状況から説明できるだろう。つまり、構成している人種の多様性の違いだ。「ブラジル人」と言っても肌の色から容姿に至るまでバリエーションが多い。一方、日本では、近所のアジア系の人々と似てるとはいえ、非ネイティブな人間は見た目でだいたい判別可能である。だから、相手の見た目で「言葉を変えたほうがいんじゃないか?」という発想は日本人にとっては自然であるように感じられる。

ネコには歩み寄りの必要はないですが・・・

2014年12月15日月曜日

ヒトも歩けばネコにあたる(その2)

道端で出会うたいていのネコは、こちらと視線が合うと、逃げ出す体制をとることが多い。誰もがネコに友好的であるとは限らないので、不思議ではない。このシャムネコはこれ以上の接近ができなかった。
いつでも逃げる体制だったシャム君


それでもたまには飼い猫タイプのネコもいて、こちらの茶ブチネコはちょっと声をかけると寄ってきた。
ネコがそう思ったかはわからないが、想像でセリフを入れ4コマ漫画風にしてみた。
「ん?」

「何か用?」
「あれ?エサないの?」

「そっちに行って損したよ、チッ(舌打ち)」
こちらでは珍しくぷっくりしていると思ったが、どうやら妊娠ネコだったようだ。首輪はないが、ほぼ飼い猫なのだろうな。

2014年12月1日月曜日

ヒトも歩けばネコにあたる(?)

週末には散歩することが多い。最近はウォーキングというのだろうか。感覚的には、運動的な要素が多ければ後者の呼び方となる気がする。

ただ歩いていても無目的な気がするため、ネコを見つけ出すことを散歩の一つの目的にしている。

出会ったときのネコの反応は3つにわかれる。
1.警戒して、近づくとすぐに逃げる「典型的野良猫タイプ」
2.こちらから近づいても逃げずに触らせてくれる「飼い猫タイプ」
3.あまりこちらの様子を気にせず、我が道をいく「マイペースタイプ」

遭遇したマイペースなネコ
今日、出会ったのはマイペースタイプのようで、特に「逃走」するわけでもなく、道を渡っていった。

外で見かけるのは、イヌのほうが圧倒的に多く、ネコは少ない。特に、田舎ではイヌは番犬として実用的なのに対して、ネコは実用性に乏しいことは否めない。いや、ネコもネズミ駆除に使われていたか?

実用的であるに越したことはないが、「実用的でない」ところがネコらしいのではないかとも思う。