2015年12月19日土曜日

「フルサトをつくる」 伊藤洋志×Pha

「ナリワイをつくる」を読んで、こちらを読んでみたくなった。「フルサト」の位置づけは、二拠点居住での田舎暮らしに相当する。田舎に移住しなくても、たまにそこに帰れるような場所をもつことがいいんじゃあないかという考えである。
そうはいっても、フルサトで職がないと困る。この点については、「足りないものを作っていく感覚で」仕事をつくればよいといっており、そこではあまり大きなモデルは考えないという。大きく稼ぐために、大きく投資するという考えではなく、必要な最低ラインを先に考えることや、家計モデルとして「収入を増やす」ことだけではなく同時に「支出を減らす」ことを提案している。別の本での3万円ビジネスに紹介されているモデル(一つの仕事が3万円でもそれを10個作れば30万円になる)の考えだ。
ここに書かれているように、大量生産が行われる時代の前は、一人の人間が小さいことを複数やりながら生計を立ててきた。だからそうした時代の仕組みを再び活かすということだろう。

生活をシンプルにすることはミニマリズムにも通じるが、ここでは共著者がPha氏であることからもわかるように、「ぬるく」生きること(例えばできるだけ働きたくないとか)を肯定することで成り立っているやり方だと感じられる。ただ、ぬるく生きるといってもそれなりのパワーが必要だと思われるので、「引きこもり」と「ぬるく生きること」は別物ともいえるだろう。

2015年11月30日月曜日

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」佐々木典士

汚部屋からミニマリストへ、これが著者の実現したことであり、そこへ至る経緯と実行の方法がわかる内容となっている。
「どうしてモノが増えすぎてしまうのか」ということと「心理的な要因」の関係性は理解できるものであり、共感できる点もあるが、著者の場合には多少「病的」であるようにも感じた。一種の買い物中毒にも通じるところがあったのではないかと。
「人間の価値をその人が所有するもので判断する(判断しやすい)から、モノにこだわるのだ」という説はそのとおりだろう。「ひとは中身で勝負だから服装はどうでもいい」ということを昔は自分も信じていたものだが、凡人では通用しない理屈であると今は思っている次第だ。

捨てる方法最終リスト55!のなかで、
永遠に来ない「いつか」を捨てる(No.20)
熱く語れないモノは捨てる(No.33)
1つ買ったら1つ減らす(No.46)
は誰しも共感できるだろう。

それと、
お店があなたの「倉庫」です(31)
では、「足りなくなったものは近所のコンビニが使えるじゃないか」という発想で、田舎でなければ使える方法だろう(田舎であれば物理的な収納の制限が少ないので、この考え方はいらないだろうが)。日用品のストックはなくてもOKの考えだが、同じ発想で、冷蔵庫や冷凍庫もコンビニからの調達で不要になるという考えもある(以前のエントリーででてきた。)

追加リストでは
私服を制服化する(02)
に関していうと、同じ服を着続けることの合理性は認めるが、実行するのはそれほどやさしくない。なぜなら、同じことに対して「飽きる」からである。服を着ることは単に寒いからだとか、身を守るからとかという実用性だけではない。ある意味、ミニマリストとは「飽き」との戦いかもしれない。


 「モノを買うために失う時間」に関して、限定SUICAで長蛇の列ができ結局買えなかった例では、モノが原因で人生の時間がもったいないといっている。時間の価値は認めるが、最終的にはそのひとがそれをどう使うかは、まあ、そのヒトの生き方によるのではないかなあと思う。行列にならんでその時間を使って買う価値があると認めれば並ぶべきだし、その価値がなければ時間の無駄だろう。あるいは、並ばなくても後でオークションなどで購入することもできる。そこでのプレミアが購入するまでに使われた時間の価値ともいえるだろう。余談だが、時給900円の人が行列に並んで待つのと、時給2万円の人が行列に並ぶ場合は単価が異なる。
その人のこだわりにはこだわるべきで、この点は一般化は難しい。「熱く語れるもの」は人それぞれであるからだ。「熱く語れないものは捨てる」は、まさに「熱く語れるのもはとっておく価値がある」ともいえる。




2015年10月11日日曜日

「日本の雇用と中高年」濱口桂一郎

 日本の雇用体系は海外とは違うらしいと気づいたのは、就職してからずいぶんたってからだった。それらは、雇用の期限が無い(=通常はずっと勤める形態)とか、職務内容に関する規定が無い(=やることが規定されていない)、あるいは年功序列的な形態である。しかし、これらの特徴的な雇用形態が生まれたのは、日本国内での経済発展の歴史のなかで生み出されてきたものであることが、この本を読むとわかる。職務給から職能給へ変更したことで、事業構造の変化で余剰となる人員を配置転換し解雇を回避したと述べられている。

 興味深いのは、職務内容が規定されていないからこそ、ひところ騒がれた「追い込み部屋」が合法であった点だろう。つまり、「職務」を規定されていないが故に、「あなたの適性にあった業務はありません」と雇用者側は主張できたということだ。さすがに、世間で話題となった以降は、この問題はマスコミでは取り上げられなくなった。合法ではあるがグレーであり、またこうした行為が「ブラック企業」という烙印を押されることを避けるためであろう。

 かつては就職さえすれば会社が従業員を丸抱えしていた。それは例えば社員旅行や社宅の提供や充実した福利厚生であった。そういう平和な時期も終わり、いまや自分のことは自分で守る時代となったのだろう。加えて、働く場も日本国内に限られるわけではないので、雇用やそれを取り巻く法律を勉強しておく必要があるだろう。


戦後の国内の雇用環境の変遷が学術的に丁寧に振り返られている。

2015年10月3日土曜日

「できれば服にお金と時間を使いたくないひとのための一生使える服選びの法則」大山旬

 服を買う上で、大きく分けて2つの戦略があると思う。
一つは安い服を高頻度で買い換えていく方法であり、もうひとつはその逆に高くてもよいものを長く使う方法である。昨今、いくら服が安くなったとはいえ、自分の目指すところは後者である。
そうはいっても、たまに安くて結構長く使えるものもあるし、高くてもあまり長く使えないものもある。ただ、安いものは二度と同じものを入手できない場合が多く、高くて定番的な商品は同じものを買い求めることが可能であることは大きな利点である。

この本には服選びににおける実践的なアドバイスがなされており、「シンプルなデザインを選べ」とか、「サイズを合った服を選べ」とか、店を選ぶ際に店員さんの服装を確認しろ」などである。

おしゃれである以前に清潔感が重要なのは誰もが思うことだろう。そのためには、よれた服はダメで普通の服ならば3年でだいぶくたびれてくると述べている。このあたりまで読んで、この本のタイトルをようやく理解できた。すなわち、
『「一生使える服」選びの法則』ではなく、『「一生選べる服選び」の法則』であったのだ。なので、貧乏人ではなく、そこそこリッチな人が使える法則が紹介されているということだ。

それでも「サイズ感が大切」であることは、ブランドの服でなくても使える原則だと思う。ミニマリズムを目指すならば役立つ情報が含まれている。

2015年8月23日日曜日

「0(ゼロ)ベース思考」スティーブン・レヴィット、スティーブン・ダブナー

「ヤバい経済学」「超ヤバい経済学」の続編。原題はThink like a freak(フリークみたいに考えろ)で、フリークみたいに考えることができない理由として、①偏った先入観を持っているから、②みんなと同じことをするのが楽だから、そして③忙しさにかまけてゼロベースで物事をかんがえなくなったから、の3つを挙げている。
ホットドッグの大食い記録を塗り替えたコバヤシがどうしてその偉業をなしとげることができたのかとか、胃潰瘍の原因は細菌によるものだということがわかったエピソードを紹介しており、ゼロベースで考えることの重要性をわかりやすく例示している。

本書のなかで「やめる」意義が述べられている。
やめるべきことを続けている理由として、
①やめるのは失敗を認めることだから
②サンクコスト(埋没費用)として続けてきたことを捉えられず、これまでやってきたことがもったいないと感じるから
③機会費用に頭が回らないから
の3つを挙げている。
ここの②と③についてはビジネスや投資の世界では理解されている概念だが、実践できるかは感情のうえからは難しいのかもしれない。
①についてはまさに合理的な理由というよりはむしろ感情的な理由といえるだろう。失敗ではなく「袋小路の発見」とみるとか、あるいは「うまく失敗する」ということでやめることができると述べている。

人間の行動は、必ずしも確率的あるいは統計的なデータに裏づけされた合理的なものではないことを気に留めておく必要があるだろう。サッカーのPKの確率論が紹介されているが、まさにこのことを示している。そういえば、本田選手がPKをど真ん中に蹴りこんだことがあったが、確率的なことを知っていたのか知りたいものだ。


2015年7月20日月曜日

「もたない、すてない、ためこまない。身の丈生活」アズマカナコ

分類でいえば、一種の節約本といえるだろう。ただ、節約がつらいかと聞かれたことに対して、
私が節約をするのは、お金をためることが一番の目的ではなくて、自分が価値のあると思うことにお金を使いたいから。だからつらいとか苦しいという感覚はありません(p132)。
といっているが、やはりお金をためることは2番目以降の目的なのかなあとも想像してしまう。しかし、節約も度をすぎると、経済的な合理性の上に成立するものというよりは、一種の思想や宗教、あるいは生き方といったほうがよいだろう。例えば、割り箸ではなくマイ箸を運動を思い出す…

 著者の家には冷蔵庫がなく、常温ではなく冷えたビールが欲しいときには近所からご主人は買ってくるらしい。冷たいものばかりを摂取すると体にはよくないのだという主張には共感できる。が、やはり冷蔵庫があったほうがいいんじゃないか!と思ってしまう。常温でビールを飲むところもあったかとは思うが、個人的には冷やして飲みたい。「節約」という観点だけから言うと、今の時代、近所にコンビニがあるので、冷蔵庫や冷凍庫あるいは食品の在庫をコンビニにアウトソーシングするのも悪くないと思う。


 トイレの工夫に関して、著者の山登りの体験から水洗は便利だけど、山小屋のトイレが合理的だと述べている。排泄物は土に埋めて還元し、土に還りにくい使った紙は分別して燃やす方式とのこと。著者の住居は水洗なので、できることとして上水を使わないように溜め水をつかうとか、化学系の消臭剤や芳香剤を使わないらしい。「環境に対するインパクト」を低減するのが目的であれば、トイレの紙を使うのをやめてウォッシュレットにする選択枝もあるだろう。ただし、これで「紙の消費量が減ったから環境にやさしくなった」と判断できるかは難しい。なぜならそこには電気消費やあるいはその装置をつくったことによるインパクトもあるからで、LCA(ライフサイクルアセスメント)の評価が必要となる。
トイレでの紙使用については、別に紙を使っていないところもあるし(例えばタイの田舎)、トイレの紙は基本的には流さない(=詰まるから)国だってある。著者が自分の住まいの条件を自分で決められるとすれば、汲み取り式にして畑に還元するのかどうはかは興味があるところだ。汲み取りであれば衛生上の課題もあるだろうし。


収納に関しては、正に身の丈生活に根ざしたことをいっている。すなわち、
あらかじめ収納する量を決めて、そこに入る量だけしか持たない(p122)
ということだ。過去の思い出の品だけではなく、持っている服や趣味の品なども、このルールを守っていさえすれば、モノが増える→収納を増やす→さらにモノが増えるという循環を断ち切れるだろう。また、これは住まいにも当てはまることであり、それほど広い家でなければ、無尽蔵にモノを買い、溜め込むことは難しいのだ。
収納量を決めるということは、その上限に迫っているのなら、何かを買うときには、今持っている何かを手放さなければならないことを意味する。モノに対しては通常使わないかもしれないが、"One in, one out policy"ということだろう。私の場合は、このことを心がけるようになってからむやみに安い服を購入することをやめるようになった。

すてないようにするとか、身の丈を考えて生活することに対しては賛成だが、便利さなどとのバランスが重要で、月並みながらやり過ぎない「中庸」が一番なのではないか?


2015年7月12日日曜日

「ビジネスマンのための「幸福論」」 江上剛

 「ビジネスマン」と言われたとき、イメージされやすいのは理系よりも文系で、いわゆる「銀行マン」(*1)を例としてあげることができるだろう。ちょいちょいテレビで著者をみたことがあるが、その元銀行マンであり現在は作家である。したがって、タイトルの「ビジネスマン」とは一般的なものというよりは「銀行マン」であり、銀行で長く勤めた経験から、どのようにそこで生き延びていくかを説いた内容と言えるだろう。

各章で書いていることはかなり具体的である。上司としての心得の一つとして、
人を活かして使うためにはまずほめること、そして長所をみつけることだ。(p76、第2章人間関係(上司と部下))
と述べている。ひとの悪いところをみつけるのは簡単だが、よいところを見つけるのは相対的に難しくなる。上下関係に限らずに役立つ指摘であろう。


社内の派閥に属するかどうか?に対して、自身が銀行時代に無派閥であったことの経験から、派閥に属すべきで、しかも徹底して属せよという「毒皿路線」(=毒を食らえば皿までも)を勧めている。(p98第3章人間関係(社内と社外)。派閥が沈めばそれとともにする覚悟が必要だが、どこかの局面では引っ張りあげてもらう必要もあるので、妥当な考えかもしれない。


「第4章 出世と左遷」の「左遷された時に…」で、そのときは「本を読んでろ」ということを著者は言われたようだ。(p117)。要は、時間があるならば勉強でもしていろということだろう(今ならばネットで何かできるかもしれない)。「左遷こそチャンスだ」と締めくくっており、ある局面では左遷だと思えても最終的には偉くなった人の例を挙げている。「人間万事塞翁が馬」どおりだと述べている。


結婚について、
結婚とは最初は情熱だが、途中からは忍耐になる。(中略) いい結婚、いい結婚相手とは、この忍耐に見合うか、だと思う。(p165、第6章結婚と家庭)
と、おおよそ一般的な意見だ。経験者ならば同感なのではないか。


管理職の憂鬱については、なぜ管理職になると鬱病になることがみられるかについて触れ、そのように病んでしまうことを防ぐためには、
管理か営業か、どちらかを選択しよう。そして選択したら、片方の手を抜こう。(p193、第7章ビジネスマンのゴール)
と自己の経験から提案している。もちろん「手を抜く」のは力の入れようを調節する意味合いだろう。要はどっちも全力で取り組むと破綻するというわけだ。管理と営業の双方で力を発揮するのは通常の人には難しいので、極めて現実的な提案といえるだろう。
 世間を見渡すと、以前は管理職にならなければ昇給が見込めなかったが、専門的な分野で管理的な職務でなくても昇給できる制度がソニーでは導入されたらしい(*2)。そういう意味では管理と実務の板ばさみ的な状況は以前よりも少なくなる環境に変わってきたのかもしれない。

現在の銀行マンを取り巻く状況がここ10~20年でどの程度変貌したかわからないが、これから銀行マンとしてのキャリアを目指す人にいろいろなことを教えてくれる本である。



(*1)銀行マンに対応する、ジェンダーフリーの言葉ってあるのでしょうかねえ。ビジネスマンとは言わずにビジネスパーソンが男女平等を考慮すると適切なんでしょうね。
(*2)ソニーのジョブグレード制度。しかし、リンク先の内容(「大幅降格、給与ダウン…ソニーの「課長」に起こっていること」)をみると固定費削減が目的のようで、職場の士気が上がるのかは疑問です。

2015年6月28日日曜日

「こだわらない練習:それどうでもいいという過ごしかた」 小池龍之介

いろいろな「こだわらない」の具体的が項目ごとにまとめられている。

 「葬儀にこだわらない」では、例として死んだ後に葬儀をどうしてくれとか散骨してくれだとかいうことがおかしいと言っている。なぜならば「死」のあとの亡骸は、もはやその死んだ本人が所有するものではないからだ。散骨の例では「自分の骨は自然に還すべきだ」という発想がすでに執着以外のなにものでもないと。人によって考えは違うとは思うが、葬儀は(信仰にもよるが)その亡くなった本人のためであるというよりは、残された人のためのものだと思う。

 「宗教にこだわらない」では、一般的に取り上げられている宗教による対立だけから論じているのではなく、反対に無宗教にこだわりすぎる「「無宗教」教」の弊害を指摘している。すなわち「無宗教が正しいのだ」という時点で、それは宗教と変わりないではないかとの意見である。

 「自我を消すことにこだわらない」では、「慢心」について触れ、修行の難しさを述べている。つまり、修行の結果、「自分は悟りの境地に達した」と思ってしまうことこそが慢心であり自我を消すことへのこだわりだといっている。ブッダの悟りの境地は「自分は錯覚である」ことを知ることだと書いてあったが、すべてのこだわりを捨てるのはこの境地であろう。

全体を通してまとめるとすると、自尊心を傷つけられたくない、大切にしたいという感情が働くために、こだわりや執着が起こると説明できるだろう。


通常のself-help本と違って、「まともな」お坊さんの書いた本で説得力はある。また、著者自身の体験として、食事にこだわりすぎて体調を崩したことや、性的経験について省みられており、偉い人からの説教ではなく身近な人の助言として受け入れられやすいと思う。

2015年6月14日日曜日

「持たない暮らし」下重暁子

 著者の言い分はよくわかる。古いものをできるだけ修理して大切に長く使いましょうだとか、食材はなるだけ顔の見える売り手から買いたいだとか。ただし、世の中のひとすべてが経済的に恵まれているわけではないので、そうした「暮らしぶり」に、経済的な視点が必要である。例えば古いものを修理して使うよりかは、買いなおしたほうが安かったり、電化製品であれば買い換えた新製品のほうが電気代が安く済む場合がある。購入した本をそのまま持っているよりも資源ごみとして戻したほうが自然に対するインパクトも小さいかもしれない。電子書籍であれば元から紙さえ消費しない。
 「いい食材を選んで買う」ことは、誰も異論を挟む余地は無いが、誰もが経済的に恵まれているわけではなく、有機栽培で無農薬で、高い野菜なんかに躊躇なく手出しできるのはそれなりの一部の富裕層に限定されるだろう。

 全体のトーンとして、高齢者にみられる「昔はよかった」だとか「今はパソコンやネットに頼りすぎているから、あまりよくない」という感じが受け取られる。しかし、いい考え方だと思ったのは、「本当にいいもの」だけを買って、「ちょっといいもの」は買わないという点だ。特に服に関してみると「これってちょっといいわよねえ」と言って買う口実にはしないのは、そうかなと思う。結局、買ったがほとんど着ないという事態に陥りがちだろう。
 「本当にいいもの」を購入する際の問題は、「高い」点だが、長く使えることが期待できるので長期的にはそれほど高いともいえないだろう。


自分も持たない暮らし方を目指したいが、そうした生き方の広がりが国の経済的発展にはマイナスになるのではないかと心配したりもするのであった。

2015年5月31日日曜日

「吾輩は猫である」 夏目漱石

 冒頭のくだりである「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」はあまりにも有名であるが、読んだことがなかった。いまや、あの青空文庫で無償で利用できるので読んでみた次第だ。
猫の目からみた人間の世界やそのおろかさについての話なので、「猫小説」とは少し違う。それでも、その主人公のネコが餅を食べてみようとして歯にくっついて取れなくなり「猫踊り」状態になる描写は笑えた。

「名前はまだ無い」から、最後まで名前がない状態で続くのだが、名前が無いからこその意義があるのだろう。名前のないことによって「特定の」猫であることを避けているのか。

このネコが銭湯を見物してそれを描写する場面がある。寒さをしのぐ実用的な要素を除いて、着物がどれほどの価値があるかを述べているが、これはもちろん著者である漱石のものの見方を反映させているのだろう。

旧字体や、いまやほとんど使われなくなった四字熟語が頻出するため、現代文ほどには読み進められないのが難点。猫がビールを舐めることが現実として起りうるのかは疑問だが、終わり方は少し切なさを感じさせる。


上記の青空文庫の元本を購入すれば紙ベースでも読めます。それなりのボリュームなので、外出先で読むならば青空文庫の電子版がいいかと思います(しかも無料!)

2015年5月10日日曜日

「今日も一日きみを見てた」角田光代

 ネコのトトを迎えてからのおっかなびっくりな体験をつづったエッセイである。ネコを飼ったことのある人にとっては「そういうことあるよね~」と思ってしまうあるある本といえるだろう。これからネコを飼おうとする人には役立つかもしれない。

 ネコ用のおもちゃを買うとき、ネコが気に入ってくれるかどうかを心配しながら購入するのは完全にありがちだ。せっかく買い与えたのに、全くの不発でネコが全然気に入ってくれない場合は自分も経験したことがある。

 ここにでてくるトトは運動神経が鈍くて、いろいろ失敗をやらかすので、それを笑ってしまうと書いている。それでトトは性格が引っ込み思案になっているということらしいのだが、実はトトのプライドが傷つけられたのではないかと想像したりする。「ネコはプライドの高い動物なので失敗しても笑ってはいけない」とどこかで読んだことがある(真偽は定かでないが)。

 ネコの来る前の時代BC(BeforeCat)と、その後のネコ紀元後AC(AfterCat)で世界が大きく変わったという点は納得できる。その癒し効果は飼ったことのある人にしかわからないだろう。まあ、いろんな布製品がぼろぼろになるとか、焼き魚を落ち着いて食べることができない等のデメリットも否定できないがw。


やはり、ネコそれぞれに個性があり、もしも失ったら容易には代替できないものだと再認識させられた。

2015年4月29日水曜日

「残酷な20年後の世界を見据えて働くということ」岩崎 日出俊

 これからの20年間は、人口も減り、しかも老人が増え、戦後の高度成長のような状況は見込めない(日本を飛び出せば別だが)。そうした状況での働き方について著者の経験的なことからある指針を示そうとするのが本書だ。

 会社に就職するならば、その会社が今後期待できるような勝ち組企業となるかを見分けることが重要であり、そのためには「投資家の視点を持つ」ことだという。そのためにはフィリップ・フィッシャーの「フィッシャーの15原則」が使えると述べている(p68)。その原則は以下の通りだ。

1.その企業は十分な潜在力をもっているか。少なくとも数年間にわたって、売上を大きく伸ばす製品・サービスがあるか
2.業績を牽引する製品・サービスの次に向けた一手を打っているか
3.研究開発が成果をあげているか
4.強い販売網・営業体制があるか
5.利益率が高いか
6.利益率の上昇・維持に対する取り組みができているか
7.労使関係は良好か
8.幹部社員が能力を発揮できる環境か
9.幹部社員は優秀な人材が多いか
10.コスト分析や、財務分析を重要視しているか
11.競合他社に優る、業界で通用する特徴があるか
12.短期的および長期的な収益見通しをたてているか
13.既存株主の利益を損ってしまうような増資が行われてしまうおそれはないか
14.経営者は問題発生時に積極的に説明しているか
15.経営者は誠実であるか


 転職のタイミングについては、自分のキャリアが上り坂が下り坂かをよく考えることが必要で、その状況がよくわからない場合には転職しないほうが無難というのが著者の考えである。
また、仕事に激しく追われる状況が続く場合には、全力疾走するよりも立ち止まって違う道を行くことを考えたほうがよいといっており、その判断の基準として次の4つを挙げている(p.191)。
1.この経験は自分自身を成長させるのに役立つか
2.自分のやっていることは意味のあることか
3.このハードワークはいつまで続くか予想がつくか
4.きちんとした年収なり将来の約束(社会的地位、天下りなど)で処遇されているか

 当然のごとく、英語の必要性についても触れている。ポイントは「短期間に集中してやる」ことと、「とにかく使う」ことの2つを挙げている。例えば、毎日1時間を100日でやるよりも、毎日4時間を25日でやるほうを勧めている。使うことに関しては最近のスカイプ英会話でもよいといっている。確かに英語学習を取り巻く環境もここ数年で大きく変わったものである。ただし、著者はESS出身なので、学生時代にすでに相当英語をやり込んでいたことが想像され、万人に最適なやり方であるかはわからない。
「短期集中」と「とにかく使う」の組み合わせと聞いて「ダイエット」の方法との類似性を思い当たった。すなわち、初期の体重を落とす時期と、それを維持する時期の2つがあり、維持する時期の食事や運動に気をつけないと元に戻る。同様に英語(に限らず語学)も維持期の管理が不十分であれば、やる前にリバウンドする危険性をもつのだろう。



20年後に老人となる世代よりかは、20年後に日本を支える若い世代に読んでほしい本だ。

2015年4月26日日曜日

「Liar's Fire」 Dee Burks

 主人公SerenaとTylerのオトナのラブストーリーだが、そこには二人のそれぞれの過去がからんでいる。Serenaは大学に入る前の年頃の息子を持つシングルマザーであり、その経歴は後半で明らかになる。一方、Tylerはレストランシェフであるがその兄弟は弁護士などの社会的な地位の高いとみなされる職業についており、兄弟のなかでは少し変わった存在である。また、親友を自分の過失で失った過去持っている。

二人の出会いは、勝手に出された恋人募集のブラインドデートの類であり、両者とも全くその気がなかった。しかし、恋人同士の「ふり」をしなければいけなくなったところから、恋が始まるという、悪く言えばベタな展開である。しかし、二人の心情の変遷の描写はなかなかである。

終盤でタイトルのにFireは関係あるとしても、なぜ「Liar's」なのかはわからずじまいであった。



‐‐‐単語、表現メモ‐‐‐
([ ]内のNoはキンドルでのページ)
■He made a face.[424]
「顔をしかめた」ですが、日常でも使うかは?です。

■She'd been a good sport, jumped in and helped him out of a tight spot with the restaurant, too.[1586]
「カラッとした人」という訳が検索されます。sportsと複数形には馴染みがありますが、単数形の用法は実際のところ使用頻度は高くないと思いますが。

■"Like a long shot of a long shot?".[2018]
繰り返されてますので「大穴中の大穴」という意味合いでしょう。

■"Don't fret over it."[4033]
fret over「ヤキモキする」「悩む」なので、「くよくよするな」となるようです。

2015年4月20日月曜日

「ネイティブなら6歳児でも持っている英語のコアの育て方」内海克泰

英語の勉強法の本だ。

世間にはいろんな勉強法があるが、なんといってもその「核」をまずつくることが大切で、その道は楽ではないと指摘している(たいていの人はわかっていることだが。)この本で示されている方法とは、まず「核本」を見つけそれをひたすら繰り返して「完全に」マスターしろという具体的なものだ。「完全に」とはすなわち、5~100回(注:5~10回の間違いではありません)は繰り返して最終的には暗誦できるようになれと、それから次の部分に進めというものだ。「核本」として、「アメリカ口語教本」や、高校あるいは中学の英語の教科書を挙げている。

ここでは「核」と呼んでいるが、要するに「基礎」のないところにはその先がないということだろう。武道であっても、また、音楽や絵画のような芸術の世界でも、最初は「基本」があってそこから発展がある。そして大抵は基礎の繰り返しは単調で面白くないだろうが、その基礎がなければ独自性を生み出すことはできないだろう(「守破離」といわれるように、はじめから「破」や「離」があるわけではない。)

著者の方法は相当なスパルタ式だが、最終的には同時通訳レベルを目指すには適用できるだろう。英語「で」メシを食べていこうとする人には大いに役立つはずだ。それ以外の人であれば、自分の持ち時間の配分をよく考えてやり方を決めればよいだろう。

さすがに繰り返しは飽きそうだが、気が乗らないときには音楽を聴きながら音読するといった具体的な方法を勧めている。

2015年4月5日日曜日

「インターネット的」糸井重里

 「インターネット」と「インターネット的」では違う。それは、「自動車」と「モータリゼーション」との違いの関係のようなものだということのようだ。他の例として、インターネットが「皿」ならば、インターネット的とは「その皿にのせる何か」であり、そのお皿自体は著者には興味ないものだという。よく言われるように、ハードが重要ではなくソフト(コンテンツ)が重要だということであろう。

 軸となる発想として、リンク、シェア、フラット化を挙げている。「フラット化」に関しての面白い指摘は、価値観のフラット化によって価値が多様化したのではなく、価値の「順位付け」が多様化するという点だ。
「多様化」に関しては、モノの生産者が多様化に対応するために困ったことになっているといわれることに対して、それは売り手の論理であると切り捨てている。そこにうまく対応できたハシリはamazonであろうが、この本が最初に出版された時点ではamazonが拡大する以前であったことから、著者の見方に先見の明があったといえるだろう。

 「インターネット的思考法」(第4章)で、『選択問題の答えを求められて「どっちでもいいんじゃないか」と、この頃は本当に思うのです』と述べており、だいたいはどっちでもいいを貫いている。選択を失敗したか成功したかは後になってみないとわからないし、振り返る時点がいつかによっても変わる場合のであながち間違いではないかもしれない。古人が「塞翁が馬」とはよくいったものである。

 筆者の考え方で面白い点は、「消費」に対して肯定的で「消費のクリエイティビティー」とまでいっている点だ。急に大金を手にした人がこぞって超高価な高級車を買う傾向がある(他に買うものを思いつかない)のを、「欲望の貧困」と表現している。だから、消費のクリエイティビティーが育てばいいなと。『人間はもっと遊んだり消費したりすることに熱心な生き物だったんじゃないか』『消費や遊びを軽蔑して、蓄積や生産に狂奔してきたことが、人間のエネルギーをすっかり疲弊させ「つまらない動物」に変えてしまった』とのべている。個人的には消費によって人間が生き生きするのは近代化が起こした変化であり、別になくても何とかなるのではと思うのだが。

 「問題発見」に関して「寝返り理論」を紹介している。つまり、何かを続けていて、それに不快感を感じ始めたらそこに問題があり何かを変える時期なのだという。寝ていて同じ姿勢で辛くなると無意識にでも寝返りを打つのと同じだということだ。まあ、ある程度同じことを続けて違和感を感じれば変化を起こす時期の知らせなのかもしれない。が、寝返りしすぎると全く寝付けないので、不快感のサインの読み違えに注意が必要だろう。

 
 本書の最後に「続・インターネット的」が追加されているが、その部分以外の本文はほぼ執筆された2001年のままということで10年以上の古さを全く感じさせないのは驚きだ。著者のクリエーターとしての能力の高さのなせる業だろう。

2015年3月29日日曜日

「執着の捨て方」アルボムッレ・スマナサーラ

 執着に関しては、モノに対して執着するなといわれれば、それはよく理解できる。この本でも執着とそれとの断ち切り方にふれているが、初めて知ったものは「言語執着」という概念である。日本人は日本語に対する執着を捨てることができれば、外国語がスッと頭に入ってくるのだといっている(かなりツッコミどころがありそうだが、、、)。

仏教の考える執着の種類は次の4つを示している。
1. 欲への執着
2. 見解への執着
3. 儀式・儀礼への執着
4. 我論への執着

 宗教で懸命にお祈りしてあの世のことを考えたり、また、来世の幸福のために時間を費やすことは、それこそが「執着」以外の何者でもないとの見解だ。宗教をめぐって殺し合いが起こるほどなので、信仰の外にいる立場から見ると「宗教が生んだ執着の帰結」かとも思える。

 執着の種類で最も衝撃を受けたのは、4つめの「我論への執着」である。「自分である」「自我である」とは、「錯覚」であり「私」は無常で変化し続ける実体のないものだと。「自我を捨てろ」というのではなく、「自我が錯覚であることを発見(=解脱に達する)しなさい」というのが仏教が諭していることのようだ。「我論の執着」までに及ぶと、その執着が何かを実感としてつかむことが難しく、だからこと仏陀は偉大であったのかと思う。

 ページの活字は大きめで、かつ、各章にはまとめもあるので読みやすい。上述のごとく、この本は単なるハウツー本とは呼べない。解脱の境地には程遠い自分としては「自我は錯覚にすぎない」という指摘には考えさせられた。


2015年3月22日日曜日

「本の力」高井昌史

本書の副題は「われら、いま何をなすべきか」だが、ここでいうところの「われら」とは、「書店関係者」を指しているのだろうなと思う。なぜなら、著者は紀伊国屋書店の社長だからだ。

出版市場が縮小している状況のを引き起こした原因として4点を挙げている。
  1. 少子化
  2. 読書離れ
  3. ネット・スマホの普及
  4. 公共図書館の貸出し増加
4番目は、書店業界人ならではの分析といえるだろう。これを原因としている根拠は、かつては公共図書館に置かれていなかった新刊や人気作が現在では貸出しされるようになったためだとしている。
図書館ユーザーとして言わせてもらえるならば、本を買っても置き場に困る個人的な事情があり、日本の住宅事情にも問題があるといいたいところだ。

電子書籍については、特にamazonの寡占化戦略に著者は否定的だ。その態度は同じ業界の競合という視点だろう。ユーザーの視点に立てば、amazonは至極便利であり、むしろ出版業界がこれまでの業態にこだわることこそが問題だろう。

出版のコンテンツとして日本のマンガ(ポップカルチャー)を、映画配給のように「世界同時発売」といった形態で売り出すべきだという提案をしている。が、これぞ正ににネットを使った方式そのものであり、「出版を活性化できるのか!」とツッコミを入れたくなった。

本書の終章では「私を形作ってくれた本たち」として、著者のおすすめ本を紹介している。読書の意義として「読書は忘れた頃に知恵となる」といっている。そうかもしれない。だったら、電子書籍でもかまわないんじゃないか? コンテンツこそが重要で、媒体にこだわりがない立ち位置は、ブックディレクターに近いだろう。


そうはいっても紙媒体の本のほうが好きだ。ただし、生まれたときからネットやタブレットのある世代は紙媒体にどの程度親近感をもっているかは興味あるところだ。

2015年3月15日日曜日

「アイスランド 絶景と幸福の国へ」 椎名誠

 アイスランドは人口約33万人で、「火と氷の国」と呼ばれている。しかし、著者が訪れた感覚では、火山のマグマのように水が噴出している島で、水も多い島だと感想を述べている。
いかにも寒くて住みにくそうな印象があるにもかかわらず、アイスランドは数年前に「幸福度指数」が世界9位になっている。その実態や理由を探るのも、この旅のテーマだったとのことで、著者の旅行記のなかでは比較的マジメな部類に入る。

 物価がやけに高い(例えば500mlのペットボトルのコーラが600円)が、やはりアイスランドの幸福度が高いというのが結論である。
アイスランドとの対比で、東京を引き合いに出している。街に無秩序な広告があふれてキタナイという見方は同意見だ。みんな同じような服を着て通勤の電車に乗り込み、みんな同じようにスマホをいじるのは著者の言うとおり異様とはいえるだろう。自殺者が年間3万人あまりという事実は、幸福でない日本を売裏付けるデータの一つだが、街がごちゃごちゃしていたり、電車が殺人的に混んでいたりすると「幸福でない」と言い切れるのかは疑問だ。なぜならば、そういった混沌とした環境が好きな人もいるに違いないからだ。

 著者の写真もあるが、ナショナルジオグラフィック提供のカラー写真も掲載されている。アイスランドの景色は地球にありながらどこかの惑星っぽいともいわれる。旅行先としては相当にマイナーではあるが、資金に余裕があれば紹介された絶景を見に行きたくさせるような本だ。


2015年3月8日日曜日

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

「村上春樹」といえば、ノーベル賞受賞者発表の時期になると盛り上がるというのが、個人的印象である。世界的にも有名な作家だが、実は読んだことがなかった。前回の本(「本なんて読まなくたっていいのだけれど、」)のなかで、この本の紹介を見かけ、面白そうなので読んだ次第だ。

高校時代に名古屋で仲のよかった5人組のうちで、主人公のつくるだけが、名古屋から東京に進学し、その後、20歳のときに突然の絶交を宣言される。それはつくるにとってショッキングなことであったが、本人も理由を詮索することなく、わからないままで10年以上が経過した。その後、真剣に付き合いだした沙羅から、その理由を明らかにすることを勧められて、4人の消息と理由を確認する旅に出るという展開だ。

解釈の難しい部分があるとはいえ、話の展開としてはわかりやすい(つまりは「旧友を探し出して、グループからはじかれた真相を明らかにする」)。ただし、青年期の心理的状態にどれだけ入り込めるかは、読者の属性に依存するだろう。つくるの年齢以降の男性であれば、自分の過去と照らし合わせて移入しやすいに違いない。一方で15歳の少年が読んだ場合にはあまり状況が理解できないかもしれない。また、女性読者からであれば、自分(中年男性ですが)とは違った印象を受けるのであろう。


基本的には「エンターテイメント」な読み物であるが、人生に関する言葉について、いくつか心に残ったものを以下に引用する。

■p23 つくるが、東京の大学に出て駅舎建築を学ぼうとした理由を聞いた沙羅の言葉
「限定された目的は人生を簡潔にする」

■p53 灰田がつくるに言った言葉
 「・・・、限定して興味をもてる対象がこの人生でひとつでも見つかれば、それはもう立派な達成じゃないですか」

■p206 つくるとアカの会話中に、アカの言葉

「おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく。」  

世の中には目的がぼんやりしていたりよくわからないこともあるので、人生だって目的がはっきりしていなくてもよいかと思ったりする。作中の登場人物の言葉から、その意味深さを想像するのもまた小説の醍醐味だろう。


2015年3月1日日曜日

「本なんて読まなくたっていいのだけれど、」幅 允孝

 基本は、本の紹介本だが、著者は「ブックディレクター」という仕事だけあって本に対する愛情がひしひしと感じ取られる内容だ。一冊の本を紹介するのではなく、その本とつながりのある本を関連付けて紹介しており、相当量の本を読んでいなければこうしたことはできないだろう。

 その場所にふさわしい本をどう選んで、どう配置するかが著者の仕事であるが、「紙の本」に強くこだわっているのではない点は興味深い。すなわち、紙の本であれE-ペーパーであれ道具に過ぎず、「何に載っているテキストを読むかではない。読んだ情報を活かし、日々の生活のどこかの側面を一ミリでも上に向かせること。」と述べている。
 それでも紙の本が電子書籍に勝る点として、「読み戻る操作」と「情報量(特に日本語に関して)」を挙げている。

 著者の子供のころのエピソードも紹介されている。近所の本屋で本をツケで買えるといった環境で育ったようだ。本の紹介だけではなく、著者の生い立ちや背景を知る上でも面白い。また、本の地産地消である「地産地読」の、城崎温泉での取り組みについてこの本で初めて知った。その地域ならではの小説と、さらにその小説がそこでしか読めないという形態は、巨大なビジネスには結びつかないかもしれないが、ユニークな着眼点である。

2015年2月15日日曜日

「人生には「まさか」の坂がある」 安里賢次

著者の金言とその解説で構成される本。前回紹介の本田健とは異なり、ちょっと生き方が破天荒であるだけに、人生論としては感じが異なっている。

「がんばりや努力はいらない。ただ波に乗ればいい。」
ここでいうがんばりや努力は、無理を伴うもので、要は「無理をするな」ということだ。
無理を伴う努力とは、その結果、健康を害してしまったり、人間関係にヒビが入るような努力のことだから、「努力はする必要ない」という意味ではないだろう。無理しない程度のがんばりや努力が必要なのはいうまでもない。
「波」は人の助けや運のことをいっている。生きていくうえでは、好不調があり、「何をやってもダメ」な不調期はある。そんなときは、潮流に逆らわずに流されてみることも必要だ。常にがんばり続けることは通常の人にとっては無理なので、いわゆる「勝負どころ」を見極めてそこで全力で集中することが肝要だろう。

「生きている意味はない。誰かのために生きてはじめて意味がある。」
さらに「人生に意味はない」と言い切っている。人生に意味を持たせるために生きるのだという意見もあったかと記憶しているが、思い切った意見である。でも
「あなたの人生が徹底的に無意味ならば、他人のために活用すればいい」
といっている。結局、他人からの承認に対する欲求があるのが人間なので、他の人に役立つように考えるのは人生に意味をもたらすのだろう。


生きていくうえで経験を積むことで学習できることは多いが、一朝一夕には経験値を上げることはできない。こうした本から他人の経験を自分の経験値として上乗せすることができるのではないか。

2015年2月9日月曜日

「これから、どう生きるのか」本田健

著者については説明するまでもなく、これまでに生き方に関しての著作が多い。本書では、「生き方」に関していくつかの項目にわけ、さらにそれらを細分化して見開き程度で読める体裁としている。

「2.お金」では、お金に感謝することを説いている。通常考えるとバカらしく思えるが、他でも同様のことを勧めている本はある(例えば、お金を大切に扱いましょうなど)。科学的に説明できないことは好まないのだが、お金を大切にする姿勢や態度が潜在意識に働きかけてお金を呼び込む作用をするのではないかと想像してしまう。

「7.健康」の項では、「健康法は自分の体質で選ぶ」といっており、これはまさに「養生法は人それぞれ」で取り上げたことと同じである。「バランスのよい食事」はほとんどの人にとってよいが、「すべて」の人に対してではなく、あくまでも「一般的」「平均的」な人の場合である。最近、禁煙治療を勧める広告で「禁煙により○年間寿命が延びます」といっているのを耳にするが、それは統計的に正しいことであり、例外は存在するのだ。なので、最終的には、自分にとっての「健康法」を見出すしかない(基本的な方法はあるとは思いますけど)。

「8.運と運命」では、「人生は不平等だが公平にできている」と、時間は1日24時間であり公平に分配されているといっている。「運命」については、「宿命」を引き合いにだしており、「宿命」は宿る命で生まれたときには決まっているもの、一方で、「運命」は運ぶ命で自分で変えられるものと区別しており、だから自分の力で何とかなる部分もあるのだといっている。「人生は筋書きのないドラマ」とも例えられるが、著者の見方からすると、大まかな筋書きは決まっているが、アドリブを入れる余地が十分にあるといったところか。


生き方に対する考え方は十人十色である。最終的に決めるのは自分しかないが、こうした本は何らかのヒントを与えてくれるだろう。

2015年2月1日日曜日

「世界最強の商人」 オグ・マンディーノ

原著は1968年に出版された、いわゆる自己啓発本の一種である。もっといえば、セールスマンとしての成功ノウハウ本の一種ともいえるだろう。

単なるマニュアル本ではなく、ものを売るための秘訣が巻物10巻に書いてあり、それに従っていくという物語的な体裁をとっている。「ユダヤ人大富豪の教え」と似てるかもと思ったが、時系列でみるとこちらの出版が早いのはいうまでもない。

各巻には、それぞれの教えと説明がある。

第6巻では、「今日、私は自分の感情の主人になる」で、感情のコントロールの重要性を説いている。感情の支配に関して、
弱者とは、自分の感情が行動を支配するのを許す人のことである。
強者とは、自分の行動によって感情を支配する人のことである。
といっている(p.130)。例え大人であっても、自分の感情によって行動が大きく影響されるヒトを見かけるのは実はそれほど珍しくはない。まるで、子供のように。そうならないためには、常に自分の感情の様子を客観的に見ることが必要だろう。


第7巻では、「私は世間を笑おう」といっているが、これはそのままでは誤解を招くかもしれない。要はいつも笑っていればよい影響があるということだ。(マック赤坂氏のイメージか。)でも、笑いを保てない困難な状況に遭遇することもあるだろう。そうした状況に対しては「これもまた過ぎ去っていく」と言い聞かせようといっている。「感情の主人になる」に通じるところがあると思う。




物語として、キリスト生誕前後のころの設定としている。そういった背景からもキリスト教の多い欧米ではこの本がさらに受け入れやすかった素地があったかもしれない。また、50年近く前の状況を考えると、それほど出版物があふれていたわけではなく、ましてやネットもなかった時代であったので、この本が爆発的なヒットとなったのかもしれない。
ほぼ、これまでに読んだ類似の啓発本と近いことが多いと感じた。この本から影響を受けているのかもしれないし、あるいは、成功に関しての原理原則はそう変わるものではない証であるかもしれない。

2015年1月25日日曜日

「生と死をめぐる断想」岸本葉子

自分が幼いころ、死は遠いものと感じられていた。テレビのドラマの中の死や、ニュースで報じられる死は、自分には関係ないものと感じられていた。おそらく、死んだあとに、空からこの世を見守ることができるイメージが漠然とあったからだろう。

死んで火葬されれば肉体は灰となり、有機物は二酸化炭素となって大気に還元される。では、魂はどうなるのか?あの世があるとすれば「高いところ」にあるのか、あるいは地の果てにあるのか、それとも地底深くにあるのか、こうした疑問に宗教は答えてくれるのだろう。しかし、信仰のない者にとってはどうなのだろうか?

著者はガンを患い、その経験から生と死に関して、同様の経験者の著述などを紐解きこれらの点に対して考察している。ここでは、控えめに「断想」といっているが、死んだらどうなるかを考える上での一種の総説的な(ポータルサイト的な)内容となっている。だから、さらに深く知るためにはこの本から、引用元の各著作へと読み進めるべきだろう。


「時間」の概念について、自分の時間、自然の時間、地球の時間で考えたり、あるいは、輪廻転生について考察したりしている。時間の流れる方向が直線的ではなく、また、流れる速さも違うのを表すのに、ぐるりと輪を描いている概念図(表紙の絵だが)を示している。輪廻は別としても、よく表していると感じた。

2015年1月12日月曜日

「ブラジル人の処世術 ジェイチーニョの秘密」武田千香

日本で感じる常識が、海外ではそうでないこともある。その常識はモラルや社会的な規範とも呼べるだろう。ブラジルでも日本の常識に照らし合わせると「?」と感じることがあり、その疑問に対して彼らの世渡り術である「ジェイチーニョ」を理解するのは有効であろう。

「ジェイチーニョ」の定義としては(p16からの引用)
なにかやろうとして、それを阻むような問題や困難が起こったり、それを禁止する法律や制度にぶちあたったりした場合に、多少ルールや法律に抵触しようとも、なにか要領よく特別な方法を編みだして、不可能を可能にしてしまう変則的解決策
としている。それでは、「違法」なのかといえば、違法でも合法でもない「グレーゾーン」の行為であり、秩序を度外視した領域に位置すると述べている。「ズルイやり方」とも呼んでいるが、ある意味「裏技」とも呼べるだろう。
アンケートの結果として、「銀行に勤務する人が急いでいる知り合いに、列の順番が先になるよう便宜を図る」ことに56%が「ジェイチーニョ」に該当すると回答した例を紹介している。日本でも融通を効かせることで起こりうるが、「例外的な」扱いにとどまるため違うのではないかと述べている。

価値基準についてはブラジルでは絶対的ではなく相対的だといっている。つまり、価値基準が人間に基づいているために、人が違えば価値基準も異なる。だからこそ、平気で約束を破るとか、言っていることがころころ変わることはブラジルの価値基準では何らおかしなことではないという考察は腑に落ちるものだ。



ビジネスをするには大変かもしれないが、ある意味「適当さ」や「いい加減さ」を許容することができないと海外で生きていくのは難しいかもしれない。タイであれば「マイペンライ」をどこまで「マイペンライ」で許容できるかに似ている状況だろう。