2015年6月28日日曜日

「こだわらない練習:それどうでもいいという過ごしかた」 小池龍之介

いろいろな「こだわらない」の具体的が項目ごとにまとめられている。

 「葬儀にこだわらない」では、例として死んだ後に葬儀をどうしてくれとか散骨してくれだとかいうことがおかしいと言っている。なぜならば「死」のあとの亡骸は、もはやその死んだ本人が所有するものではないからだ。散骨の例では「自分の骨は自然に還すべきだ」という発想がすでに執着以外のなにものでもないと。人によって考えは違うとは思うが、葬儀は(信仰にもよるが)その亡くなった本人のためであるというよりは、残された人のためのものだと思う。

 「宗教にこだわらない」では、一般的に取り上げられている宗教による対立だけから論じているのではなく、反対に無宗教にこだわりすぎる「「無宗教」教」の弊害を指摘している。すなわち「無宗教が正しいのだ」という時点で、それは宗教と変わりないではないかとの意見である。

 「自我を消すことにこだわらない」では、「慢心」について触れ、修行の難しさを述べている。つまり、修行の結果、「自分は悟りの境地に達した」と思ってしまうことこそが慢心であり自我を消すことへのこだわりだといっている。ブッダの悟りの境地は「自分は錯覚である」ことを知ることだと書いてあったが、すべてのこだわりを捨てるのはこの境地であろう。

全体を通してまとめるとすると、自尊心を傷つけられたくない、大切にしたいという感情が働くために、こだわりや執着が起こると説明できるだろう。


通常のself-help本と違って、「まともな」お坊さんの書いた本で説得力はある。また、著者自身の体験として、食事にこだわりすぎて体調を崩したことや、性的経験について省みられており、偉い人からの説教ではなく身近な人の助言として受け入れられやすいと思う。

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