2016年12月3日土曜日

「〈貧乏〉のススメ」 斎藤孝

経験としての貧乏も悪くない、そんな内容だ。したがって「ずっと貧乏」を勧めているわけではない(それが通常の人間の感覚でしょうけど。)


貧乏の自覚に関しては、著者の貧乏経験を振り返り、次のように述べている。
貧乏を受け入れて暮らすのか、貧乏には戻らないように働き続けるのか。二つの岐路にたっているんだということを意識するだけで未来の展望はひらけてくる。(p.50)
貧乏経験を経ると、そこに戻りたくないという感覚が働き、それがモチベーションになるようなことを言っている。すなわち、
仕事をするうえでちょっとした貧乏性であることは、まっとうな危機感をもつうえでとても大切なことなのだ。(p.55)
と貧乏性を肯定している。


貧乏経験をバネにするという点で、
その若いころの「悔しい」体験が、あとあとの燃料になっている。わたしはそれを「石油化」と呼んでいる。(p.64)
と表現している。植物の残骸が長い年月を経て原油に変わることになぞらえているのは、なるほどと感じられる。


貧乏であればお金を使えないが、そのことをデメリットとは受け止めず、反対に、
学びは貧乏ととても相性がいい。(p.80)
といっているのは的を得ているだろう。お金がなくとも「学ぶ」ことは十分に可能であるからである。
しかも、今やネットを使えば 「学ぶことがタダ」となる傾向が加速している。
しかし、全くの無料で学ぶことには全面的に肯定しているわけではなく、お金を使う効用も述べている。すなわち、
学ぶということでは基本的にいいことなのだが、身銭を切るからこそ暗記するし、覚えることもできる。(p.195)
との意見だ。タダには越したことがないが、そこで身銭をつかうかどうかで「本気度」が変化するのは心理学の理屈で説明可能な人間の特性といえるだろう。


貧乏は「通過点」であるとしても、基本的には欲求には際限ないといっており、
ただし欲望は限りない。それを自分でコントロールする感性があるかどうか。それが重要だ。(p.209)
と、自制の大切さを説いている。 これに関しては、「感情をコントロールする」の項で次のように言っている。
社会性のある人間になるには、もう一つ、感情のコントロールが重要だ。「自分の気分」と「外へ出すもの」は別でなければいけない。(p.149)
大の大人であっても感情を「垂れ流し」にしてしまう人がいるのは事実であり、それは大人とは言えないだろう。

以前に紹介した貧乏のすすめと同じタイトル(別著者)ですが、ちょっと立ち位置が違います。

2016年11月29日火曜日

「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」坂口 恭平

端的に言うと「ホームレス入門」といえる。ホームレスとは路上生活者なのだろうが、その概念を拡大して路上のみならず河川敷での生活も含まれる。ホームレスとなると、原則的には住所不定をとなりいろいろと不便が多いと聞く。しかし、見方を変えるとこれって「ミニマリスト」の一つの形なのではとも思える。いうなれば「所有」からの解放である。
大都会において「狩猟採集生活」が成立つという見方は新鮮であるが、逆に都市でないと成立しないともいえる。言い方を変えると都市への「寄生」的な生活だ。

ゴミから稼ぐこと(ここではゴミを「都市の幸」と呼んでいるが)の実際のやり方が紹介してあり、まさに「入門書」である。書かれていることの中でも、住む場所についての記述が興味深い。住まいを考えるとそこにはインフラが不可欠であるが、そこで、電気や水道、ガスに「なぜいつもつながっていないといけないのか」という疑問を投げかけている。その答えとして「それは使う分量がわかっていないからではないか」といっている。著者が「多摩川のロビンソンクルーソー」と呼んでいる人の生活から、資本主義とは離れて「自分にはどれくらいのエネルギーが必要なのかを把握し、その分だけを自らの手で手に入れるという考え方」がなされているといっている。

河川敷に住居を構え、そのあたりで畑を作って野菜をつくったり、また生業としてゴミを選別したりして現金を得る生活をホームレス(その前は乞食といったかどうかは不明だが、これは現在では差別的な言葉なのであろう)と呼ぶが、その生活スタイルはむしろ合理的ではないかとの見方ができるだろう。

最後のほうに『森の生活』(ヘンリー・デイビット・ソロー著)と、それと関連して『方丈記』(鴨長明著)のことがでてくる。前者は森の中で2年間の自給自足の記録であり、後者は鎌倉時代に鴨長明が山に方丈庵を建てそこでの記録をつづったものである。でその方丈庵がモバイルハウスであったという点が、著者がとりあげたポイントであろう。つまり、現在の都市型狩猟採集生活と類似点が多いということである。

2016年10月30日日曜日

「さよならインターネット- まもなく消えるその「輪郭」について 」家入一真


著者のこれまでのインターネットとのかかわり(過去の部分)と、これからどうなっていくのだろうか(どうなってきているのか)が書かれている。

インターネットの世界でいわれていた「シェア」、「フラット」、「フリー」のうちで「フラット」ではなくなってきた事実の指摘は興味深い。すなわち、ネット上では匿名も可であり、そこではリアルの社会的な地位や年齢、性別も関係なかったはずなのに、いまや実名や肩書が幅を利かせる状況がみられる。このあたりの状況がネットとリアルの境界線がなくなってきていると表現できるだろう。

また、ネット時代となったことでコミュニケーションコストが下がり切ってしまい、その結果どこでもつながるから休めなくなったという。逆にいうと、かつてはコミュニケーションにはそれなりのコストを要していたわけだ。電話だってお金がかかるし、ましてや手紙となるとそれを書くのに要する時間のコストも要したわけだ。サービスのコストが下がればそのユーザーも増えるわけで、その結果、いうなれば「つながり過ぎ」による疲弊という思わぬ影響が生じたというわけだ。ネットであれリアルであれつながりをもつことは大切かも知れないが、反対につながらずにいる(孤独とまでは言わないが)ことも必要なのではないかと思う。

「人の価値をポイントで決める」ということ記述があるが、そのはしりはネットオークションの出品者の評判あたりだろう。全く知らないひととの取引で、ようはその人に対する「信用」をどう評価するかの手掛かりになる。そうした評価の拡大版として、実生活で「あの人は○ポイントで結構高いね」とか「あの人のポイントは低いからダメだ」とか言われる社会がくるのだろうか?

ネットの世界とリアルとの関係性を考える上で参考になる本であろう。

2016年9月22日木曜日

「人生の〈逃げ場〉」上田紀行

 一昔前の会社中心の生き方は終わったという論調は、他でも見受けられるが、そこを「会社一神教」と言っている分は新しいかもしれない。昔(といっても戦前ごろか)では、地域のつながりあるいは、精神的な支えとしての宗教が機能していたが、現在ではその部分が希薄になってしまったと。会社という組織の中で生き辛くなると、あたかもその人が全面的にダメっぽくみられたり追い込まれたりするのは「会社一神教」の弊害であるといえるだろう。


経済全体が右肩あがりの時代であれば、会社が非雇用者を「丸抱え」するシステムは機能していたが、全体的に経済が縮小していく昨今の状況では「成果主義」とかが声高に叫ばれる状況は致し方ない。本書の終章で「交換不可能な存在になる」ために、会社単線の生き方から、複線化した人生へと言っている。非正規雇用の問題や、経済至上主義はまさに人間を「交換可能な」存在として扱う思想の上に立っているといえるのではないか。

一般的にいえることは、ひとつだけに頼っていては危なっかしいということだ。会社の事業でもでかい柱に頼っていても、それが順調なときはよいが、状況が変わって傾いてくると全社的な危機となる。「多様性」については生命も同じで、「多様性」があるからこと変化に対応できるわけで、多様性がないと外的な要因で「絶滅」の可能性があるわけだ。そのほか、資産運用だって「卵をひとつのかごに盛るな」といわれるように、リスクを減らすための分散投資は基本的な考え方だ。
だから勤め人だとして、その勤務先に全面的に頼ってしまうと危なっかしいということだ。おそらく、あまり心配なく頼れたのはバブル期以前までであり、年金が55歳からもらえた世代だろう。

「交換不可能な存在」って、言ってることはわかるが、それって相当ハードルが高い気がする。まあ、プロスポーツ選手や優秀な経営者のような存在になることは難しいが、きちんとした家族の一員としてや、小さなコミュニティーのなかで欠かせない人物になることくらいはできるかもしれない。

2016年9月19日月曜日

「きみに努力はいらない」桜井章一

「雀鬼」と呼ばれるほどの人でありながら人間性を大切にするというのは不思議な気もするのだが、逆に、基本的な人間性が備わっていたからこそ、勝負強さを発揮できたのかもしれない。先天的な要因が大きいと思われるが、「流れ」を読むという点では卓越した能力を備えていることが想像できる。そうした能力がなくても、基本的な心構えは参考になると思う。

・成功と成長の違い
成功とか出世とかいう部分は、成長とは違い「脂肪」のようなものなので多すぎると調子がわるくなると表現している。これは「足るを知る」ことにつながっている。
さらに足ることを知ること、それがどの程度なのかを決めておくことで、余裕が生まれるといっている。少欲知足ということだ。

・流れを読む重要性
また、流れのなかで生きていくことが大切だと説いている。わかりやすい流れではスポーツの場面があるが、長期的にみると生きていく上では数年単位の「流れ」もあるだろう。他の本でも、人生のある局面では「流れ」に逆らうことなく(良い意味で)流されることも必要だといわれていた。

・努力について
努力と押しつけられた時点でダメなのであって、いちいち努力しなくても本当にすきなことややりたいことであれば努力はいらない、この脈絡において「努力はいらない」といっている。確かにゲームに熱中している人に対して「努力」はないだろう。本当に打ち込めるならば、それは「努力」という概念ではない。少なくともいやなことを「努力」で克服することに無理があり、「努力すればなんとかなる」という幻想に気づくべきだろう。

2016年9月17日土曜日

「筋金入りのヘタレになれ」島田雅彦

 酒場で放談する形式をとっており、どちらかといえば週刊誌や三面記事的なネタを取り上げている。それでも最後のほうでは、若い人へのこれからの生き方を指南している内容だ。
小説家として著名であるが、実はいずれの作品も私は読んだことがないので、先入観というか、バイアスなしで読んだ。著者のファンであれば、とらえ方が違ってくるのかもしれない。

■男はどうしてやばい女性に惹かれるのか?の部分で、手塚治虫の『ばるぼら』の例が出てくる。
小説家の男が新宿で美人ホームレスを拾ってくる話、らしい。

■理想の老人介護施設とは老人ホームとキャバクラがセットになっているもの、といい、また、これが不謹慎であればキャバクラやナイトクラブが介護サービスを始めればいいと。まあ、それで老人(男性がメインだろうが)が元気になればよいが。ばかげた考えにも見えるがビジネスの分野としてはブルーオーシャンだろう。

■愛する人の排泄物をも愛せるか?のとこで」『今昔物語』の引用がある。好きになった貴婦人を嫌いになろうとしてそのウンコを味見してみたら以外に芳ばしく、ますます好きになった話らしい。著者は高校の時の古典の最初の授業で習ったというが、私ははじめて知った。
 しかしこれについて調べてみると、話が違っているようで、用を足す容器にあらかじめ「偽の」ウンコみたいなものを仕込んでいたらしい(まとめ参照)。(うーん、やはり元の出典をみないと、いいかげんなことが書いてある場合もあると思った次第だ。)

■若い人が海外旅行にでなくなったことに対して、旅にでることのメリットとして、海外にでて、日本ではありえない価値観などに触れることにより、自分がローカルな習慣や文化のなかに縮こまっていることに気づくといい、そうした発見があることで「旅は財産になるし叡智になる」といっている。日常のなかでの経験値の蓄積は限られるので、旅にでることや違った場所で生活することは人間の幅を広げられるのは間違いないだろう。

■働き方について、日本は非正規雇用という奴隷階級を生み出したとか、会社で働いて偉くなる人は倫理的に正しいことをしてきたというよりは会社の論理に沿ったひとだとか、一面では新しいこともあり、ほかで言われていることでもある。AIが進歩して最後に人間にできることは何かなどの考察もあり、戦争するかしないかの判断もAIに任せれば間違いないだろうと。「間違いを犯すこと」は、人間らしさの一つ(だから「間違った相手」と結婚したりする)だが、AIが人間に近付くということは、そんなエラーをも取り込むことなのかと、不思議に思う。

2016年9月4日日曜日

「フランス人は10着しか服を持たない」ジェニファー・L・スコット

邦訳本で、タイトルがよくできている。ぱっと見で「10着だけ?」と思うのではないだろうか?原題には「10着しか服を持たない」なんて書いてはいない。また、中では「10着(くらい)」と書いてはいるが、実際にはその10着に含まれないものとして、上着類、ドレス類、アンダーシャツなどがきちんと挙げられている。要はクローゼットにパンパンになるくらいの服は必要でなく、着ない服は処分するとか、着れなくなった服も処分し、少なめの服でも着まわせばよいということである。

家の中でさえキチンとした身なりでいることが大事とはいっているが、その点は庶民レベルでは違うのかなと思う。もはや育ちの善し悪しのレベルなのではないか。

アメリカ人の著者がフランスに留学した際に、フランス人の生活に触れて「シックな」ライフスタイルを発見して、それを実現するためのコツを挙げている。「シック」がやたらと出てくるのだが、このフランス語らしい単語も英語となっているようで、上品さや垢抜けしたことを示す名詞や形容詞である(やたら「シック」と出てくるが「chic」でなく「sick」を連想したりするが)。

「何を着るか」という「外見」も重要であるが、本質は、「どう生きるか」であり、品よく生きるためにはどうしたらよいかということが書かれている(それを「シックな」と呼んでいる。)
着るものはある程度コントロールできるものの、その人から漂う「上品さ」は一朝一夕にはつくることができないだろう。いわゆる「育ちがよく」なければ難しいかもしれない。しかし、どうすれば上品になれるかに気をつけておけば多少なりとも品のいい人間に近づけるのではないだろうか?

知り合ったばかりの人に対する質問として「最近なにか面白い本を読みましたか?」が最適だとあり、これは使えるも知れないと思った。もちろん、そうした質問のためには自分が本を読んでおく必要がある。

ミニマリズムに通じる点も多いが、同時に「オシャレ」でいることを目指しているので、質素とも違うのかなあという印象を受けた。フランスは洗練されているかもしれないが、別に日本だって素晴らしいと思うので書かれているすべてを受け入れる必要もないだろう。

2016年8月7日日曜日

「「しないこと」リストのすすめ」 辻信一

 「やることは」はリスト化するが、「やらないこと」をわざわざ決めるておくのは一般的ではないだろう。いわば「しないこと」に意思をもってやらないということだろうか?何かの本に「しない」というのは決定しなかったことではなく「しない」という決定を下したのだと書いていたことを思い出す。
「すること(すべきこと)」が足し算的な発想であるのに対して、「しないこと」は引き算的な考え方であるとし、以下のように述べている。
過剰という問題を解決するにはどうすればいいか。そう、答えは引き算にあり。空間であれ時間であれ、整理の基本は、溜めこみすぎたクラッターとしてのモノやコトを、いかに削減するか、だ。[p.99]
英語の「クラッター」という概念を引き合いに出している(著者が海外に長く住んでいたことにも関係しているのだろう)。要は家の空間に詰め込みすぎの状態のことだが、概念はまさにものだけではなくコトにもあてはまるだろう。

 モノの所有に関しては、モノを買う→置き場がなくなる→スペースを確保するにはお金がいる→そのためには働いて稼がなければいけない、そしてその稼ぐためには生産活動が必要で、
ぼくたちはみんな「生産」という王様の奴隷たちなのだ。[p.105]
と述べている。今の時代は生産と消費(しかも大量な)に経済が支えられていると言わざるを得ないだろう。また、生産→消費→拡大再生産の輪に取り込まれた一般人は、そこから抜け出せない奴隷ともいえるだろう。

 「引き算が生む質の豊かさ」の項で「more is more」と「 less is more」の話がでてくる。大量生産大量消費の前提では「もっともっと」が継続する。一方、後者では、わかりやすい例では、モノを減らせばより多くの空間が得られることだが、モノが少なくても精神的には豊かになれる可能性を言っている。まあ、豊かさや幸福についてはひとまとめに語ることは難しいが。


第4章の未来のためのしないことリストの「3.雑用をゴミ箱に捨てない」では、「雑用」、すなわち「効率化のためには無駄なこと」の価値が論じられている。効率化のなかで言われる「雑用」にこそ意味があるのではないかと。引用すると、
しかし、人生とは、そもそもこうした雑用の集積のことではなかったのか。雑用には時間がかかる。いかにも非効率的だ。面倒に感じられることも多いだろう。しかし、時間もかからなければ面倒でもないようなものに、そもそもぼくたちはいったいどんな楽しみややりがいが見出せるというのだろう。[p.135]
自分を省みると、時間的な効率化に染まってしまった発端は受験勉強時期にあったように思える。(その無駄排除の姿勢も大学進学後にはしばらくなくなったが…)。

効率化をめざす、雑用をゴミ箱へほうりこむ、そうしたことは結構なことだが、その効率化の先には何があるのかを考え直すことが必要であるかもしれない。いろんなことに「無駄」のレッテルを貼る以前に、日々行っていることのどのくらいのことが「無駄じゃない」と言えるのか?その答えはその人が生きる上で何を大切に思っているかによって千差万別であろう。

2016年7月24日日曜日

「「貧乏」のすすめ」ひろさちや

「貧乏」は悪いことなのか?あるいは忌み嫌うべきことなのか? その答えを出す前に、「貧乏」の定義付けが必要だろう。単に「貧乏」といっても、贅沢ができない程度から、その日に食べるものもろくにないような程度とさまざまであり、ひとくくりに「貧乏」と呼ぶには危険である。

この本で言いたいのは、結局は欲望には限りがないので、金持ちであるよりかは「少欲知足」でいいじゃないかということに集約できるだろう。資本主義の元では、大量生産、大量消費が前提なので、貧乏が肯定される社会ではないといえる。

アメリカ資本主義は資本家と労働者の差別的階級に分けるのを避けて、労働者を消費者にし、そしてこれがグローバル資本主義のもとでは労働力のみが海外へ移転したために労働者=消費者の構図が崩れ、さらに貧富の差が拡大したという説明は納得しやすい。

本書では「必ずしも貧乏だからといって不幸ではない」、言い換えれば、「幸福のためにはお金持ちである必要は必ずしもない」ということを言いたいのだろう。お金が幸福に結びつくことも否定できないが、むしろひょんなことから大金を得たためにその後の人生がめちゃくちゃになるという話はよく聞く。

自分と他人を比べるから、相対的な貧乏が顕在化するのであって、現実には難しいが、他人と比べないことが肝要であろう。(一方で、他人と比べ、またそこに競争があるからこそ前進があるとも思えるが。)また、貧乏に寛容であるためには、ある程度の不便さに寛容であることが必要であり、ミニマリズムにも通じるところがあると思う。

激しい競争を目指すか?スーパーリッチを目指すか?それともそこそこの生活を目指すかはその人の生き方次第で自由だ。しかしその一方で、地球上の資源は有限であることも考える時期に来ているのではないだろうか?

2016年7月9日土曜日

「孤独の価値」森博嗣

 昔であれば孤独は死活問題であった。つまり、お互いが助け合っていかなければ生きていけなかった。だからこそ、「みんな仲良くしましょう」とか「友達を沢山つくりましょう」という学校で教えらててきた理屈は合理的であった。しかし、そうしたことが「世渡りに有利」だと単刀直入に教えられてこなかったのは、「学校」という枠組みがあったからかとも思う。

 現代では孤独であっても生きていけるし孤独に対して寛容な世の中になった。ひきこもりが容易な時代といえるだろう。一方、ネットの普及により、なんだかいつでもつながっている時代になってしまった。「つながりがないこと」が「さびしい」こととしてネガティブにとらえられている風潮がある。モノと同じで「つながり」さえもが商売の対象となっているのが現代だ。本書は、孤独だからいけない、あるいはむやみに「絆は大切だ」ということに疑問を投げかけている。孤独に対する否定的な感覚は、本書で指摘の通り、メディアが作り出した点が大きいだろう。

 最後の章で、「孤独を受け入れる方法」が紹介されており、創作活動や研究が挙げられている。また、もっと簡単なこととして「無駄なことをする」ことが勧められている。で、その「無駄さ」に疑問を持つことが大事なことなのだと。
著者は研究者出身であるし、自身も孤独肯定派であるという特殊要因もあるが、孤独の良しあしを考える上ではおもしろい内容だと思う。孤独に対するとらえ方は、メディアの影響は否定できないが、生まれ持った性質(パーソナリティ)も影響するだろう。


2016年6月11日土曜日

「1週間で8割捨てる技術」筆子

断捨離ブームから捨てることに注目が集まっている。捨てるための技術の紹介本で、ブログからの出版化をみたものとのことである。

捨てるかの判断で、この本では「反ときめき」が勧められている。すなわち、モノを捨てる判断基準として、「そのモノに触ってときめくかどうかで決める」のではなく、反対に「つかむ、捨てる」をワンツーのアクションでやることをすすめている。事実、捨てるかどうかですごく悩む状況はありがちなので、よい方法かもしれない。ちなみに自分のとる方法のひとつは、捨てる捨てないの判断に迷う場合、「保留」のための箱を用意しておき、そこに入れておく。しばらくそのまま放置しておいて保留の状態で使う機会がないことがわかれば、その時に後で捨てればよいのだ。

捨てることに対する「リバウンド問題」が取り上げられている。すなわち、ダイエットと同様、かたずけても、いつの間にかモノが増えて元どおりになるという現象だ。「食器を捨てる」の章で、食器を増やさない5つのルールがあり、そのなかに「100円ショップには行かない」がある。やはり大事なのはまずは買わないこと、買う場合には何かを捨てることがモノを増やさないコツなのだ。「安いから買う」という発想をまずは捨て去ることが肝要である(残念ながら自分としてもその発想がしみついている面は否定できないが。)前にも書いた気がするが、「一つ買ったら一つ捨てる」(特に洋服の場合)のポリシーがよいだろう。本書でも「ワン・イン・ワン・アウト」として紹介されている。

本来であれば「必要だから買う」という姿勢のはずだったのが、「モノを買うその行為自体」が目的となるがゆえにモノにあふれる生活に困るという結果を招いているのだろう。(「ショッピングセラピー」なんて表現で、言い訳にしているひともいるでしょうが。)捨てることが目的ではなく、モノが少ないシンプルな生活がもたらすものをイメージできれば、片づけ作業もはかどるだろう。

2016年5月8日日曜日

「一生モノの超・自己啓発」鎌田 浩毅

世の中にあふれるビジネス書や自己啓発本は、実のところ役に立つのだろうか?この疑問に対してひとつの答えを提示しているのが本書であろう。
「ビジネス書」が「ドクサ化」しているという指摘は的を得ている。「ドクサ」とは、ギリシャ哲学の用語で、「人間を絶えず惹きつけるものだが、必ずしも幸福にしないもの」らしい。また、これらのドグサ化したビジネス書のなかで謳われていることのマイナスな点は、そのハウツーができない場合、それができない本人に責任がある風に書かれている点だといっている点は新しい。つまり、うまくいかないことを見せつけられることで、本人の「無力感」が増大される可能性があるというのだ(それが出版社の思惑かもしれないが。)

「成功本はムチャをいう」という本でも、「書いてある通りできれば苦労はないよ」といった感じだった。本書でも同様に、「自己啓発本に書いてあることをすべてやろうとすると24時間では足りないのではないか?」と指摘している。
それでどうすればよいのか?という問い対する答えは、端的にいって「いいとこどりしよう」だ。「こうすればよいです」と書いてあることは、本によっても違うし、また、一番重要なことは、誰かの言っている黄金律は、「普遍的にだれにも適用できるわけではない」という点だろう。これは、健康法にも通じる点だ。例えば、「朝は早起きが健康に良い」といわれても、「すべての人に対して」この習慣がベストとは限らないだろう。食事にしても「肉食はよくない」といわれる一方で、「肉は長寿によい」と言われたりする。おそらく、このどちらも嘘ではない。嘘ではないが万人に適応できないだろう。なぜなら、同じ人間でも、それぞれの体質は同じではないからである(個人的には早起きで肉少なめな習慣がほとんどの人によいことだと思うが。)

ストックからフロー型の生き方、つまり、ため込まない生き方を勧めている。これはまさにミニマリズムに通じる点だろう。ため込まないのは物理的なものだけではなく、人間関係について「友達は3人いれば十分」や「SNSを休んでみては」などソフト面でも言及している。(浅い人間関係をひきずるのはやめようと言っている人は「お金じゃ買えない」の藤原和博氏も同様だった気がする。)

面白いと思ったのは「頭で考える」ことのほかに、「体の反応(体からのメッセージ)」に注目している点だ。例えば5月病についても無気力を体からのサインとし、休んでいればそのうちエネルギーがたまって何らかの方向で元気になるから心配ないという意見である。体の感覚の重要性は「無学問のすすめ」でも触れられていた。


自己啓発オタクやビジネス書オタクが読んでみるべき本であろう。著者のオタク経験に裏付けされているので説得力のある内容だ。

2016年5月2日月曜日

「勤勉は美徳か?幸福に働き、生きるヒント」大内伸哉

世の中では、働いている人といえばいわゆる「勤め人」が多数派ではないかと思う。どこかに勤めて、給料をもらっている人たちである。そのなかでは、当然ながら契約のうえでの関係があるはずだが、この契約やその他の法的な環境を理解して勤めている人はどの程度いるのだろうか?日本国内でみると、正社員になると期限のない雇用となるのであまり意識されてないのではないか。
自分の入社当時はまだ不景気ではなかったため、その辺の事情(労働に関係する法律)に無頓着であり、ここまできた。まあ、それでも何とかなってきたのは今と比べてまだ「世知辛さ」の度合いが小さかったためであろう。

本書は労働法関係について、具体的な事例とともに示されており、その辺の事情に詳しくないひと(自分も含まれますけど)に役立つ内容だ。例えば年休については、休む際に上司の承諾が必要であると思われがちだが、これは違法であり、また、会社の許可なく年休を取得できるところが日本の法律の特徴だと述べている。また、会社の「時季変更権」(平たく言うと、年休取得のタイミングを雇用者側がずらすこともできる権利)についても、その要件として「事業の正常な運営を妨げる場合」が必要だが、実際に休みの届を出して休むなと言われてもめたらどうなるのか?その判例も示されている。

著者は法律の専門家であり、本書では「日本」と「ヨーロッパ」での雇用や労働法の比較が随所で行われている。本書で日本の労働関係の歴史を眺めると、法ができた背景には労働者を守る思想があったものの、結果的にはライフワークバランスを阻害するものもあったことがよくわかる。

働く概念を、「labor」、「work」で紹介していたのは、ある意味本質を突いているといえるだろう。laborは奴隷の働きから来ており、一方でworkとはそのことばが「作品」を意味するとおり何かを創造する働きであると。おそらくはブラック企業と呼ばれる職場では「labor」となっているのだろう。

労働法をよく知り与えられた権利を行使するのはよいが、そこは日本的なしがらみがあるので、現実的に実行は容易ではない。例えば年休をすべて使い切ることが可能な企業はどれくらいあるのだろうか?ここのところ、年休消化率ランキングなんてものが発表されているが、中小企業ではむりなのではないか?大企業はまだしも、だれかが休んだことによって仕事が減るわけでもなく、その分がだれかにしわ寄せがいくだろう。で、結局休めないなんてことになりがちだ。この点についても、「年休の取得時期を労働者側に渡したほうがよいだろう」という法律の趣旨が裏目にでた例だと述べている。この点について著者は、むしろ一斉に休む時期を決めたほうがよいのではとの主張である。


就職(就社?)したばかりの人にも、また、労働法をざっくりと知りたい人にも勧めたい本です。

2016年5月1日日曜日

「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」万城目 学

単に猫がでてくるようなので、これを読んでみた。猫同士が会話するとか、猫が人間の言葉をわかるとかはよくある話だ。しかし、ここでは、マドレーヌ夫人(と呼ばれる)猫が、猫にとっての外国語である犬の言葉を理解する点が、他の猫ストーリーとの違いといえる。
小学生になったばかりの「かのこちゃん」と、その飼い猫となった「マドレーヌ夫人」が話の中心である。そこに、かのこちゃんとその親友の話もからみつつ、マドレーヌ夫人とその夫である玄三郎(かのこちゃんの飼い犬)の物語でもある。

出会いと別れという点、あるいは、読んでいるときに子供のころの感覚を呼び覚まされる点では、以前に「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んだ時と似ている(「砂糖菓子の…」は主人公が中学生で、やや年代が異なるが)。

ネタばれとなるが、玄三郎が病気で死んでしまうところは、飼い猫を病で失ってしまった自分としてはちょっと他人事をは思われなかった。「ペットが話すことができたら…」は、ペット持ちのだれしもが持つ願望ではないだろうか?
この小説にはまり込むことができるか否かは、読者の犬や猫に対する経験に基づくところが大きいだろう。

2016年4月16日土曜日

「あなたがデキる人か否かを決めるのは、人事部です」三冨圭

 架空の会社の人事部の活動(?)を描いた体裁であるが、その実体は著者の外資系企業での人事での勤務経験に基づいたことであろうことは容易に想像できる。

ほかの本でも似たようなことが言われているが、確実に出世するための法則が書かれている(p.61)。その条件は、
条件1 あなたを出世させることのできる人間が存在する。
条件2 あなたを出世させることによって、その人間に都合のいいことが起こる。
 条件1は、いわゆる「引き」、すなわちだれか引っぱり上げてくれる人間が必要だということだろう。逆に「引き」がなければダメだということだ。


 人事の定期面談で「あなたは毎日の自分の仕事に、自己評価で何点ぐらいをつけますか?」と聞かれたら要注意だという(p.136)。なぜなら、その時点で「仕事ぶりに問題がある」と直属のマネージャーに思われていることを意味するかららしい。外資系だと仕事のパフォーマンスを厳しく管理するからだろうともとれる。しかし、ここのところの日本企業でも世知辛くなり、人材派遣会社と結託して「ローパー社員」を切り捨てようとし話題になった(朝日新聞の記事)。

 出世したほうがよいのか?ここのところ「ライフワークバランス」なんてことも言われているし、勤め人生活だけがすべてではないだろう。かといって、経済的な成長が鈍化した今では、窓際族も絶滅への道をたどっている気がする。

実力があれば、自分のあう環境へと移動していけばよいが、どこへいっても「どういう尺度で評価されるのか?」という点に気をつけないと評価が低いままとなる危険性がある。
人事部は従業員のために働いている一面もあるが、やはり、人事部に隙をみせてはならないし、むこうも表面的には「親身」かもしれないが、単につけ入る隙をみせていないということか。

2016年3月14日月曜日

モノのクラウド化ができるサービスがあるらしい

 これまで、ミニマリズムについて何度か書いてきた。その必要性の一つの理由は、居住空間の物理的な制約である。モノが増えれば、その収納スペースを増やすのがひとつの方法だが、通常は(庶民的なレベルでは)限界がある。だから、モノを増やさないようにするのがベストである。その一方で、溢れるモノをレンタル倉庫に預けるという選択肢もある。この選択枝の問題点は、そのコストの他に何を預けたのかわからなくなってしまう点だろう(特に小物の場合)。かといって、それらを1点ずつ写真を撮って管理するというのも手間である。また、箱単位でレンタル倉庫を利用すると、箱単位でしか出し入れできない点が欠点である。
 これらの問題点を解決するサービスがあることを知った。日経の記事で紹介されている「サマリーポケット」というサービスである(服もスマホの中 モノのクラウド化で変わる暮らし)。

良い点といえば、箱に雑多に詰め込んで送っても、写真撮影無料で画像データとしてくれる点だろう。また、その画像データをもとに指定したアイテムを取り出して引き出すことができる点も便利だ。宅配で送ってくれる料金が800円なので、これが高いか安いかは?である。保管料はひと箱300円/月であるが、年間では3600円である。単純に考えると、1年以内で3600円で買い直せるものであればこのサービスの利用前によく考えたほうがよいだろう。
 いちいち写真撮影するのは相当の手間だが、それでもこのビジネスモデルは儲かるのかどうかも興味のあるところだ。

2016年3月7日月曜日

「こころ」夏目漱石

言うことがコロコロと変わるヒトには困らされるものである。特にそれが会社の上司であるとストレスの要因となる(まさに自分の経験でもある)。そうはいっても、一般的に「首尾一貫」して言っていることや、やっていることが不変なヒトはどれくらいいるのだろうか?「ブレない」ことは評価されることであるが、度が過ぎると「融通のきかない」あるいは「軌道修正のできない」状態となり、それはそれで危険である。ブレすぎると「優柔不断」となり、それはそれで困ったことだが。

この小説は「上・中・下」の部分に分かれており、そのうちの「下」では「先生」と呼ぶ人物が、その過去を「私」への遺書という形で語っている。その中では、若いころの先生とその友人Kとの関係、そしてなぜKが自殺したのかが明らかにされている。先生とKは一種の「恋敵」となっていたのだが、そのために親友ともいえるKを追い込んだ。、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と常々言っていたKのブレ、つまりK自身が精神的に向上心のないものと確信させるように仕向けたのである。
ある意味、頭でっかちになると頭(脳)がすべてのようになり、体の機能や体の反応が過少に評価あるいは無視され、悲劇的な結末を招く(頭だけではなく、体の感覚も重要という点は「無学問のすすめ」でも書かれていた。

全体的に重く沈んだ気持ちとなる小説だ。題名を「こころ」としている点はよく考えられている。
その時代にスマホやらメールやらが使えたら成り立たないだろうなとか思った。



電子版はアマゾンで無料ですし、青空文庫 でも読めます。

2016年3月6日日曜日

「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」桜庭一樹

 主人公の山田なぎさ(中2)と、転校してきた自称人魚の海野藻屑(小説といえどかなりふざけた名前だが)の2人の女の子の友情物語であり、藻屑が父親に虐待され続けていたという父子虐待の話もありつつ、なぎさと引きこもりの兄友彦の話もある。さらに言えば、なぎさの片思いであった野球部の花名島と、なぎさと、藻屑の三角関係も絡んだストーリーである。冒頭ですでに藻屑が異常な状態の死体で発見されることから、その犯人探しの話でもある(すでに犯人の予想はつくのだが)。
 この小説のタイトルにひかれて読む気になった。「砂糖菓子の弾丸」の概念は、「実弾」と対極にある。タイトルだけだと目的語がほしくなる(「砂糖菓子の弾丸は○○を撃ちぬけない」の○○の部分)が、それがないのは意図したことだろう。しかし、副題(英語のタイトル)では ” Lollypop or A Bullet” となっており、「砂糖菓子の弾丸あるいは実弾」かという意味が表されている。

 友彦が、なぎさから藻屑の虚言ばかりの様子を聞いた後で、
「彼女はさしずめ、あれだね。"砂糖菓子の弾丸"だね」
と言いさらに続けて、
「なぎさが撃ちたいのは実弾だろう?世の中にコミットする、直接的な力、実体のある力だ。」と言っている。そして実弾に対して「空想的弾丸」と表現している。[kindleでは位置No.344]。
 空想的な弾丸を撃ちまくるのは、多感な年頃のティーンエージャーの特質かとも思うのだが、砂糖菓子の弾丸の解釈は読み手に委ねられるだろう。

 異常犯罪者の青少年の精神鑑定に使われる質問を友彦がなぎさに投げかけた件が、後半の犯人探しの伏線となっている。この質問が実際に使われているかの真偽についてはネットで検索しても判明しなかったが、一部のサイトではサイコパスを見抜くための質問のひとつとして挙げられている。ただし科学的なものというよりかは「都市伝説」のレベルなのかもしれない。

小説に対してあれこれと分析してもしょうがないので、読んだヒトがいろいろと感じ、解釈すればそれでいいと思う。一言で青春ものとは言えない小説である。


2016年2月8日月曜日

「無学問のすすめ」伊東祐吏

この本の結論は、表紙にも書いてあるとおり「学問をすると、バカになる」という一点だ。そのことについて、養老孟司や池上彰などについて批判的である(彼らは秀才病だからということだ)。
池上がショーペンハウエルの「読書について」のくだりについて多読を肯定している点を引用している。つまり、ショーペンハウエルは「読むだけで考えなければ意味が無い」といって、読書して熟慮すれば意味があるといっている。しかし、著者は、これらの考えに違和感をもっている。すなわち、知識や思想にやたら触れていない者こそが物事についていきいきと考える弾力性をもっているのではないか、と述べている(p180「健全な精神は凡才に宿る)。

「自分で考えること」の大切さはだれもが賛同する点だろう。一方でいろいろな知識を吸収することは、むしろ自分で考えることを阻害する要因であるという本書の主張はどうか?武道では「守破離」という言葉があるように、まずは型を守ることか入る。そして型を破りその後に離れる。「学問」にしても似たようなことがいえるかとも思えるのだが。本書での「無学問」とは、全く本を読まなくてもよいというよりは、本からの情報過多から知識偏重となって「頭でっかちになるな」といっているのだろう。「脳」で処理されることだけでなく「体」の感覚も重要だというのは気づかされた点だ。

多読していればよいというわけではないが、この本の内容をよく理解するためには「多読していないと厳しいんじゃないか」とも感じた。凡人にとっての「無学問」と、凡人でないひとの「無学問」は意味が違うだろう。


2016年1月3日日曜日

「物欲なき世界」菅付雅信

モノを買わなくなった傾向はなせ生じたか、ではお金とは何なのかといった疑問に対して、さまざまな著作を元にその理由を考察している。また、同時にその鍵を解くための関係者に対するインタビュー(直接あるいはメールベースの)取材もされている。構成としては、一種のポータルサイト的であり、この本からさらに詳しく知りたければ元の引用の各著作にたどって行くのがよいだろう。「総説」あるいは「レビュー」と言ったほうがわかりやすいかもしれない。

大量生産・大量消費に支えられていた資本主義もそろそろ成熟を迎えているのではないか、という点は誰しも感じる点だろう。本書でも述べられてるように、人間の歴史からみるとここ数十年の経済的発展の傾向が「特異的」という見方は的をえている。お金とモノそして幸福とは何かを考える参考となるだろう。某クルマのCMの「モノより思い出」というコピーは、よくできていると思う。クルマはものであるが、それはあくまでも「思い出」をつくるための手段の一つだからだ。