2016年7月24日日曜日

「「貧乏」のすすめ」ひろさちや

「貧乏」は悪いことなのか?あるいは忌み嫌うべきことなのか? その答えを出す前に、「貧乏」の定義付けが必要だろう。単に「貧乏」といっても、贅沢ができない程度から、その日に食べるものもろくにないような程度とさまざまであり、ひとくくりに「貧乏」と呼ぶには危険である。

この本で言いたいのは、結局は欲望には限りがないので、金持ちであるよりかは「少欲知足」でいいじゃないかということに集約できるだろう。資本主義の元では、大量生産、大量消費が前提なので、貧乏が肯定される社会ではないといえる。

アメリカ資本主義は資本家と労働者の差別的階級に分けるのを避けて、労働者を消費者にし、そしてこれがグローバル資本主義のもとでは労働力のみが海外へ移転したために労働者=消費者の構図が崩れ、さらに貧富の差が拡大したという説明は納得しやすい。

本書では「必ずしも貧乏だからといって不幸ではない」、言い換えれば、「幸福のためにはお金持ちである必要は必ずしもない」ということを言いたいのだろう。お金が幸福に結びつくことも否定できないが、むしろひょんなことから大金を得たためにその後の人生がめちゃくちゃになるという話はよく聞く。

自分と他人を比べるから、相対的な貧乏が顕在化するのであって、現実には難しいが、他人と比べないことが肝要であろう。(一方で、他人と比べ、またそこに競争があるからこそ前進があるとも思えるが。)また、貧乏に寛容であるためには、ある程度の不便さに寛容であることが必要であり、ミニマリズムにも通じるところがあると思う。

激しい競争を目指すか?スーパーリッチを目指すか?それともそこそこの生活を目指すかはその人の生き方次第で自由だ。しかしその一方で、地球上の資源は有限であることも考える時期に来ているのではないだろうか?

2016年7月9日土曜日

「孤独の価値」森博嗣

 昔であれば孤独は死活問題であった。つまり、お互いが助け合っていかなければ生きていけなかった。だからこそ、「みんな仲良くしましょう」とか「友達を沢山つくりましょう」という学校で教えらててきた理屈は合理的であった。しかし、そうしたことが「世渡りに有利」だと単刀直入に教えられてこなかったのは、「学校」という枠組みがあったからかとも思う。

 現代では孤独であっても生きていけるし孤独に対して寛容な世の中になった。ひきこもりが容易な時代といえるだろう。一方、ネットの普及により、なんだかいつでもつながっている時代になってしまった。「つながりがないこと」が「さびしい」こととしてネガティブにとらえられている風潮がある。モノと同じで「つながり」さえもが商売の対象となっているのが現代だ。本書は、孤独だからいけない、あるいはむやみに「絆は大切だ」ということに疑問を投げかけている。孤独に対する否定的な感覚は、本書で指摘の通り、メディアが作り出した点が大きいだろう。

 最後の章で、「孤独を受け入れる方法」が紹介されており、創作活動や研究が挙げられている。また、もっと簡単なこととして「無駄なことをする」ことが勧められている。で、その「無駄さ」に疑問を持つことが大事なことなのだと。
著者は研究者出身であるし、自身も孤独肯定派であるという特殊要因もあるが、孤独の良しあしを考える上ではおもしろい内容だと思う。孤独に対するとらえ方は、メディアの影響は否定できないが、生まれ持った性質(パーソナリティ)も影響するだろう。