2016年2月8日月曜日

「無学問のすすめ」伊東祐吏

この本の結論は、表紙にも書いてあるとおり「学問をすると、バカになる」という一点だ。そのことについて、養老孟司や池上彰などについて批判的である(彼らは秀才病だからということだ)。
池上がショーペンハウエルの「読書について」のくだりについて多読を肯定している点を引用している。つまり、ショーペンハウエルは「読むだけで考えなければ意味が無い」といって、読書して熟慮すれば意味があるといっている。しかし、著者は、これらの考えに違和感をもっている。すなわち、知識や思想にやたら触れていない者こそが物事についていきいきと考える弾力性をもっているのではないか、と述べている(p180「健全な精神は凡才に宿る)。

「自分で考えること」の大切さはだれもが賛同する点だろう。一方でいろいろな知識を吸収することは、むしろ自分で考えることを阻害する要因であるという本書の主張はどうか?武道では「守破離」という言葉があるように、まずは型を守ることか入る。そして型を破りその後に離れる。「学問」にしても似たようなことがいえるかとも思えるのだが。本書での「無学問」とは、全く本を読まなくてもよいというよりは、本からの情報過多から知識偏重となって「頭でっかちになるな」といっているのだろう。「脳」で処理されることだけでなく「体」の感覚も重要だというのは気づかされた点だ。

多読していればよいというわけではないが、この本の内容をよく理解するためには「多読していないと厳しいんじゃないか」とも感じた。凡人にとっての「無学問」と、凡人でないひとの「無学問」は意味が違うだろう。